2013年9月16日月曜日

安行中 my Love



 静岡県の川勝平太知事の話題が、つい先日マスコミを賑わせていた。
 今年の全国学力テストで県内の小学校の国語Aの平均正答率が全国で最下位であったことを受けて、県内公立小学校524校のうち下位100校の校長名を公表したいとの発言である。知事としては、「子どもには責任がなく、先生に責任がある」との言い分である。永年、大学で教鞭をとっていたという知事の真意は分からないが、「子どもには責任がなく、先生に責任がある」との言い分には首を傾げたくなります。

 私は自宅から10分から15分ほどのところにある安行小学校と安行中学校に通い卒業しました。ご承知のように、両校とも昔から学力的に問題があるという評判があった学校です。今でも覚えているのは、中学校3年生の夏休みに通っていた川口駅近くの学習塾で、講師の先生にどこの中学校かと聞かれた私が、「安行中です」と答えると、「行(ぎょう)中か…」と言われたことがありました。そうした言葉が出るぐらい安行中学校のレベルは、市内でも有名だったのかもしれません。それと思い出すのが成人式の日、親に買ってもらった新調の背広に身を包んで友だちと行ったグリンセンター(その頃はリリアではなくグリンセンターだったのです)で気づいたことですが、久しぶりに顔を合わせた中学校の同級生たちの中で、大学に通っている同級生たちが意外に少なかったことをおぼえています。
 そして、静岡県知事の「子どもには責任がなく、先生に責任がある」との言い分は、昔から安行地区で大人たちがよく口にしていた言葉のように思います。でも自分がそれを口にしていた大人たちの年齢になったいま、それはたぶん違うのではないか。いまも昔も先生たちには責任はない。その思いが、私には確かな確信となっていま心の中にあります。

 9月14日(土)、安行中学校の校庭では体育祭が開催されていました。
 私が中学生だったときと同じように、少しはにかんだ表情をした中学生たちが、開会式で行進をしながら目の前を通っていきます。応援合戦のときの、生徒たちの妙に照れたような表情。そう、安行中学校には、ああいった不器用な姿がたぶん伝統なのだと思います。私が中学生だったあの頃もそうだった。近くの安行東中学校ならもっと自信をもって、上手に応援合戦をしたのではないでしょうか。でも安行中学校の生徒たちは、どこか自分というものを隠して、周囲に同化させてしまうような姿があるのかもしれません。
 あの頃と何も変わりがない。そしてどの子も自分が大人になることに微塵の不安も感じていない後輩たちの姿が、現実社会の厳しさを私に考えさせてしまう。
 どうも現実社会は、日本人が食べるのに充分なパンを与えないことを決議してしまったらしい。だからこれからを生きる若者たちは、自分と自分の家族の食べるパンを自分で手に入れる能力を必要とされる。しかも真っ当な手段を使って…。
 学力が伝統的に低く、中学卒業後に高等学校に進学しても相変わらず中途退学者が後を絶たない中学校。そして高校卒業者の就職先の労働環境が悪化してからは、二十歳前後で退職してしまうために社会保険や年金を打ち切られる人たちが後を絶たない。でも彼らはまだいい方なのかもしれない。高校を卒業しても、就職先がなくアルバイトを生業している卒業生も多くいる。
 解決策はある。入学する高校のレベルを上げればいい。でもこれが難しい。中学校の先生が悪いのではなく、地域が学力の上昇を求めていない。だから静岡県知事の発言は間違っていると私は思う。
 いま安行中学校の運動部の半分ぐらいが、朝練を実施しているという。子どもたちは朝7時前に家を出て、部活を終えて家に着くのは夕方6時を過ぎる。土曜日、日曜日、祝日も部活がほとんどある。そして保護者と地域の方たちは、それが当たり前の状況だと考えている節がある。でもこれは、県内のどこの中学校でも行われていることではない。川口、越谷、草加など一部の地域に限られたことである。もちろん、子どもたちに規則正しい生活を送らせるというメリットがあるのは分かる。たぶんこれによって、非行に走る子どもたちが少なくなるのも事実であろう。でも学力は到底上がらない。






2013年9月6日金曜日

通知表の恐いはなし2(結論)

 先日、シローズ塾長のブログにアップさせていただいた「通知表の恐いはなし」で、事実の提示だけで結論が書かれていなかったように思いまして、結論らしきことを以下に書かせていただきます。

 通知表において「よくできている」的な良い評定を多く取ることは、とても価値のあることだと思います。ブログの中でも書かせていただいていますが、立派な大人に近づいている…という見方も確かにできると思うのです。でもただそれだけでは、高校入試で評価される…に続く小学生としての学力を身につけることはできないようです。なぜかと言えば、小学校のテストが考えて答えを導くという形式のテストではなくて、授業中に先生がどんな説明をしたか。その記憶力の調査的な内容のテストだからだと思います。当然知能指数の高い子どもたちは良い点数を取ることになる。さらに知能指数の高い子どもたちは、頭の中で化学反応に似た動き?が起こって、高校入試でも通用するような知識を得ることができる。そこまでいかない知能指数の子どもたちは、ブログに登場しているような結果になってしまっているようです。
 それから気になるのが、ブログの中でも書いたのですが、最近小学校に一層幼稚園的な側面(できない子、やる気のない子を授業に積極的参加させようという傾向)が強まってきているようです。小学校の研究授業を見せていただく度に、その事実に戸惑うことが多くなりました。そしてこうした問題は、授業レベルの低い安行・新郷地区ではより顕著なものになってきているように思います。
 ではどうすれば良いか。一つの方法として、国語でも算数でも良いから(両方ならもっと良い)、考える時間の必要な問題を早い時期から解かせることだと思います。早い時期から塾に通っている子どもたちは多いですが、分かる問題を長時間やらせても、目と指先の運動にしかならないとは言えないでしょうか。たぶん塾側の責任というものもあると思うのです。意識的に楽しい雰囲気を作って、さあこれからという時に急に階段を外す。それって、塾の経営的には正しいかもしれないですが、道義的には絶対に間違っているやり方だと思います。習い事ですから、成績を上げるためには、やはり上がる分だけの苦痛を伴うものだと思います。




公立入試平均点を考えるときの憂鬱


 実は今年の公立高校入試で、こんなことが起きています。
 平成15年度入試以来ほぼ下降を続けていた入試得点が、一気に5教科で37.6点も上昇しました。平成15年度から平成25年度までの入試平均点の割合を記載すると、下のようになります(満点を100としたときの平均点のパーセンテージを記載)。

   15年度60.8% → 16年度60.2% → 17年度55.4% → 18年度55.8% →  19年度57.7% →
   20年度55.8% → 21年度53.8% → 22年度50.5% → 23年度48.6% → 24年度47.6% →
   25年度55.1%
             ※ 平成22年度、23年度は前期試験のみ記載しています

 公立高校入試の平均点は、平成15年度の60.8%から微増はあるものの、前期試験に5教科の試験が導入された平成22年度からは(それ以前は前期試験が調査書と面接、一部の高校で50分の総合問題が実施されていた)、年々低下していました。そしてこの間高校入試において、上位校から中位校までの合格者の各教科の平均点は、ほぼ偏差値順にきれいなピラミッドを作っていたはずです。具体例をあげれば、浦和高校に合格した生徒たちのある教科の平均点は、その下のレベルの大宮高校や浦和一女に合格した生徒たちのその教科の平均点よりも高かったと思われます。入試資料に書かれている偏差値順に合格者の平均点がしっかりとしたピラミッド作る。しかも5教科にわたって…。それが県の意志であったように思います。
 5教科に渡ってきれいなピラミッドを作る。そのために毎年難易度を上げる必要があった。とくに数学は、平成24年度入試で100点満点中36.5点まで平均点は低下しました。たぶん数学は得意な生徒と苦手な生徒が多数存在する科目なのだと思います。だから県も、難易度の高い問題を1問から2問程度入れる必要があったのだと思います。たしかに数学には、浦和高校や大宮高校、浦和一女用とも取れる難易度のかなり高い問題が含まれていたように思います。どのくらいの難易度かと言えば、難関私立高校の入試問題に近い問題と言えばお分かりになるかもしれません。毎年のようにそうした問題が含まれていた。そして学力の低下がありますから、平均点は年々低下せざるを得ない…。そうした状況が確かにあったと思います。
 25年度入試も引き続き平均点が低下する。そう考えていた関係者たちは多かったと思います。実は私もそうでした。ただ入試が終わり、塾に来てくれている生徒たちの合否が分かったとき、何か例年の入試とは違うものを感じたというのが正直なところでした。私以外でも、そう感じた塾関係者は多かったはずです。ある高校入試の評論を仕事にしている方は、「県が匙(さじ)加減を間違えた」という言葉で、25年度入試を表現しました。そして「入試得点の上昇は25年度に限ったことで、26年度は数年前の状況までふたたび低下する」という言葉を続けていました。
 入試の合否は入試得点と内申点、それから中学校での部活動や生徒会活動と資格等の合算で決まります。ただその中での割合で言えば、ナンバーワンが入試得点、そしてナンバーツーが内申点であることには間違いないと思います。高校入試において入試平均点が上がるということは、受験者が点数を取りやすい状況になるということですから、入試得点の差は比較的出にくい。その結果ボーダー(合否の分かれ目)は内申点のウェートが上がることになります。
 例えば、現中学3年生が入試を迎える26年度入試が昨年並の平均点(275.5点/500点満点、55.1%)の場合、川口北校に合格するには合格者平均偏差値(62.1)では、35平均の内申点が必要になると思われます。しかしもしも入試難易度が上がり24年度の平均点(237.9点/500点満点、47.6%)まで下がったとすれば、同じ合格者平均偏差値の62.1程度であったとしても、おそらく32平均程度の内申点で合格が得られることになると思います。
 受験関係者のほとんどが、下がると言っている入試平均点がはたしてどうなるのか? それは今の時点では全く分からないことだです。おそらくこれから6ヶ月、入試のその日までさまざまな憶測を呼び、場合によっては保護者まで巻き込むようなことになるかもしれません。その波紋をさらに広げるつもりはないのですが、私は入試平均点が25年度と同様のものとなる可能性はあるのではないかと思っています。ですから、今年のシローズの受験指導は入試平均点が昨年並みであることを仮定したものになると思います。理由は中位校から下位校の、例のピラミッドの姿です。
 埼玉県は上位校から下位校までの合格者の平均点を難易度(偏差値)の順番に並べようとしていた節があります。その結果、入試問題は年々難しいものになってしまっていた。ところがそれによって、いま下位校の入試得点は私たちが首を傾げたくなるほど合格者の点数が低下してきている状況にあるようです。例えば市内の合格者平均偏差値46.4の高校の入試最低点は500点満点中80点を下回っていると言われています。さらに低い合格者平均偏差値43.6の高校ではやはり500点満点中50点を下回るとも言われています。いずれも5教科の合計点です。1教科の平均点を考えれば、10数点から20点弱といったところ。浦和高校から大宮、一女を受験する生徒なら、1教科で合格点が取れる状況にあると思います。もはや今の入試問題で、すべての高校受験生の学力を測ることが出来なくなってきている。そしてゆとりの教育や学力の低下といった問題が、集約される形で偏差値50以下の高校に訪れている。そうした見方ができるのでないかと思います。つまり上位校から中位校までをきれいなピラミッドで現そうと、入試レベルをあげれば下位校の生徒の正確な学力を測ることができない。また逆に中位校から下位校までの受験生の学力を正確に測ろうとすれば、上位校を受験した生徒たちの学力を正確に測れない。今はそうした状況にあるのだと思います。ですから県が、入試のレベルを下げたとしても不思議はない。私はそう考えます。
 もしかしたら埼玉県も他県が先駆けているように、ここ数年のうちに高校入試問題を上位校から中位校用の問題と中位校から下位校用の問題を用意するかもしれません。そうでもしないと、今の入試の歪みは是正できないところまで来ているとも言えます。ただ可哀想なのは、確かな合格判断が出来なくなってしまったために、志望校を下げざるを得なくなってしまう受験生たちだと思います。





                                                                         

2013年9月3日火曜日

通知表の恐いはなし



 夏期講習会が終わろうとしています。

 トップは独走態勢、下位の子たちの努力で下位と中位の子たちの学力が僅差となってきた中1Sクラス。どうも歯車がずれていると、首を傾げたくなってしまう中2クラス…にも意外な生徒が頭角し始めている。中3生で言えば、自分のやる気(勉強時間)で成績は上がるということに、ここに来てやっと気づいた様子。そう努力をした生徒たちは、みんな夏休み前と夏休み後の自分の変化に気づいているはずです。
 私はと言えば、9月9日(月)から始まる2学期の授業のことで頭がいっぱいになっている状態です。そんな頭の状態で、最近プログを書いていないな。と思い…、反省をし、書き溜めていたブログの直しを始めた次第です。


 1学期の終業式が終わり、小学生の何人かの保護者の方からお子さんの通知表を見せていただきました。内容を見ると、まあさまざまではあるのてすが、一番に感じたのは、やはり成績を測る指標にはなっていないとの思いでした。例えば同じ学年の生徒で、明らかに学力の異なる2人の生徒がいたとして、その2人の生徒の学力の違いが、小学校の通知表の評定からは推し量ることはできない。やはりそれは事実であると思います。
 ただ、通知表には素晴らしい部分があって、いま現在の状況で子どもたちが、「立派な大人になるとしたときに、どの時点にいるのか?」。それを見ることができるのではないかと思います。「もう少し」よりも「できている」さらには「よくできている」が多い子の方が、立派な大人に近づいている。そういう見方ができるのではないかと思うのです。
 このことは、実は夏期講習会中に小学生の生徒たちに話しました。彼らはテストでは良い点数を取り学期の終わりに渡される通知表の評定も出来るだけ良いものにして、誰もが家庭で褒めてもらいたいという気持ちを持っていると思います。でも、ではなぜ通知表の評定を良くしなければならないか?という理由に気づいていなかったのだと思います。私が、通知表で「よくできている」を取ることは、とっても素晴らしいことだと思うよ。「もう少し」がほとんどなくて、「よくできている」がとっても多いというのは、今の時点で立派な大人になれる可能性がとっても高いということだと思う…。だからみんな、立派な大人になりたいと思うのなら、「よくできている」を取ろうよ。どうしたら取れるかって、それはみんなが考えることだと思う。夏期講習会のときに、私がそういった話をすると、目の前に座る小学3年生から5年生の生徒たちは、意外にも実に真剣に彼らは聞いてくれていました。
 授業(問題)の説明も含めて、私がこのクラスの生徒たちに真剣に話をしようとする時、私の真剣さが強ければ強いほど、私の期待値よりも、聞く側である彼らの真剣さは残念なことに必ず低くなってしまう…というのが、実情であると思います。でもこの日ばかりは違いました。全員がということは言えないかもしれませんが、かつてないくらいの真剣さで、私の言葉を胸にしまってくれていたように感じました。たぶん彼らにとっても、通知表の評定の真意…というものに気づかぬうちに疑問を持っていたのではないかと思うのです。ご両親を含め、家族や親戚の方達まで、通知表の評定に注目している。でも実際にそれを取る側の子どもたちには、各教科のテストの点数に合致しているとは言い難い現在の通知表の評定に、どうすれば「よくできている」がつくのだろう? あるいは「よくできている」がたくさんついたとして、それが何になるの?的な疑問があったのではないかと思うのです。
 「よくできている」が多いと、立派な大人になれる…という、私が口にした言葉は、たぶん今の小学校・中学校の先生方には、使いづらい言葉ではないかと思います。生徒たちに伝えたいという気持ちになったとしても、じゃあ「よくできている」が少ない子は立派な大人になれないの? それを連想させてしまう言葉である以上、35人もの子どもたちを前にしては、なかなか言い出しにくい言葉ではないかと思うのです。
 それを私が口にしてしまった。決して私が凄いことをしたのではなく、わずか5人の生徒、しかも彼らの成績や性格を、また私という人間のこともよく知っている間がらからこそ、言えた言葉なのだと思います。それがたぶん生徒たちには、先生と呼ばれる人の言葉として、とても新鮮な言葉に映ったのではないでしょうか。だから彼らも、普段よりも真剣に私の話を聞けた。ということなのだと思います。

 さて、本題です。
 ときどき、こんな生徒がシローズに来てくれます。
 中学の成績は「上」です。定期テストの学年順位がたいてい20番ぐらい、そして通知表の評定は40前後です。通知表が良いわけですから、前述の話のように、彼は立派な大人になるべき道を順調に歩いているように思います。もちろん彼は、こうした生徒たちがそうであるように、大いにスポーツマンでもあります。そしてこれもキーポイントなのかもしれませんが、彼は小学校から安行・新郷地区の小学校に通っています。
 そんな彼が中3生になって、シローズに来てくれました。志望校は偏差値が60以上の高校です。何としても、合格してもらいたい。彼の人柄を見れば、たいていの塾の先生たちはそう思うはずです。私もそう思いましたし、他のシローズの先生たちもその気持ちになっていました。ところが上がらないのです。偏差値が、入塾以来全く動かない。
 彼を見ていると、こんなことに気づきます。彼は勉強の仕方を変えていない。たいていの生徒たちは、入塾以降、勉強の仕方を変えてくれます。それまでの定期テストで点数を取る勉強の仕方から、模擬試験、さらには入試で点数を取る勉強の仕方に気づかぬうちにも変わって行きます。でもなぜか、彼は勉強の仕方を変えていない。変えていないというよりも、変えることが出来なくなっているのかもしれない。彼を見ていると、そんな気になります。
 たぶん彼には、小学生の頃から先生方に評価されてきた勉強の仕方がしっかり過ぎるほど根付いているのだと思います。でもそれは、小学校と中学校で評価される勉強の仕方でしかなかった。決して高校入試で点数が取れる勉強の仕方ではなかったのです。
 いま小学校の授業は、年々幼稚園的な要素を取り入れたものとなっているように思います。落ちこぼれの子どもたちを無くそう。誰もが参加できる授業にしよう。そういった小学校の先生方の努力の弊害が、彼のような生徒を生み出している。そしてその傾向が年々強まっているといえるかもしれません。
 この先、彼がどうなっていくのか? もちろん成績は上がっていくはずです。というよりも、私が彼と向き合いながら彼の成績を上げていくのです。