2018年10月26日金曜日

いま、もう一度私立高校を考えてみたくなった 2018.10

今年も高校受験が追い込みの時期になってきている。
来月の初めに、中3生の第6回北辰テストが行われ、その結果が16日頃に自宅に送られる。保護者たちはその結果と、一学期の通知表の写しを持って、我が子が受験する、あるいは受験を希望する私立高校の個別相談会に出向くことになる。埼玉県の中学生たちだけの制度である確約を取るためだ。

確約とは、合格の内諾と言い換えることもができる。表向きには、確約は存在していないことになっていて、受験生たちは1月の22日から25日に行われる私立高校の入試を受験し、ちゃんと合格発表は行われるのであるが、実は95パーセント以上の受験生の合否は7月末から始まっている個別相談の場で決まっている。
95パーセント以上と書かせていただいたが、私が塾を始めてから二十数年の間で、確約が出ているのに不合格となった生徒はわずかに2人。1人は入試時の態度で、もう1人は内申書に書かれた欠席日数と個別相談時に伝えていた欠席日数が大きく違ったために不合格となった。その2人以外は全員合格している。

その確約を、県内全域と都内の北区、足立区、豊島区、板橋区等、埼玉県内の中学生たちが多く受験する地域の私立高校のほとんどで、この確約を出している。
ただ一部の私立高校はこの確約を出してはいない。この確約を出していない私立高校は、指で数えられるほどにごくわずかであるはずだ。その意味で、ほぼ全員に近い埼玉県の中学生たちは、この確約という制度を利用して私立高校に合格することになる。

確約の基準となるのは一学期の通知表と、7月から11月までの北辰テスト。12月の北辰テストの結果を見てくれる場合もあるが、このことはその私立高校の募集状況によって変更となる場合があるので、できる限り11月までと思った方が無難であると思う。もしも11月までの北辰テストで、基準に達していない場合に、12月の北辰テストの結果や二学期の通知表、あるいは12月初めに渡される内申書を見てもらえることもある。

中学で行う実力試験や校長会テストというのも基準にはなっているようであるが、私立高校側にとっては、どちらかといえばそちらは、やや消極的であるように思う。校長会テスト等中学で行う模擬試験と北辰テストは、受験者の人数が異なるから、同じ50の偏差値であっても、当然学力に違いがでる。その結果私立高校側にとっては、どの辺の学力なのかがわからない面があるようだ。
塾に来ている生徒たちに、中学で行う模擬試験と北辰テストの偏差値を聞くと、やはり差が出ている。
どうだろうか? そうでない場合もあるが、若干北辰テストの偏差値の方が、低く出る傾向があるようにも思う。
それと英検等の資格も加点となると思うが、どのレベルの高校を受験するかによって、またどのレベルの資格なのかによって、加点の内容は変わってくる。
偏差値50程度の私立高校であれば、英検3級は加点となると思うが、もしも偏差値60以上の高校であると、英検準2級であっても、それほどの加点にならないようである。

というようなやり取りが、私立高校の個別相談会で繰り広げられた結果、お子さんに確約が出されるかどうかが決まる。やはり単願の方が、いくぶんレベルは下がり、入りやすくなる。
各私立高校では、内申点や偏差値による基準を一学期中に決めているはずですが、応募の状況や前年度の入学者数によっては、その基準を下回ったとしても相談に乗ってもらえる場合がある。
このことに関しては、保護者よりも塾からの相談が有効であるようだ。
今さいたま市を除く、県内の全域で公立中学側からの相談が望めない状況があるから、やはり塾の室長クラスの方が相談に出向く必要があるのだと思う。お子さんの塾選びの際に、こうした私立高校への斡旋を行っている塾であるかどうかを確認する必要もあるのかもしれない。


では、公立高校と私立高校の違いって何なのだろう?
毎年二学期の中間テストが終わる頃になると、よく考えることがある。
ただこの問題、なかなか保護者の方と同じ見解を持てないことがあり、私から保護者の方に伝える言葉や表現の部分の力不足を痛感することも多くある。
これはきっと真正面から私立高校を見ている保護者と、やや斜め前方からその私立高校を見る癖がついてしまった私との見方の差の違いのせいではないか。そのために、私にはいくつもの私立高校に対する疑問がある。

まず、私立高校の施設の充実に関する疑問がある。
果たしてたくさんのお金を掛けた施設が必要なのか?という疑問だ。中には掃除を専門に行う業者が入っている学校まであるのではないか。
誰しも綺麗な場所、豪華な場を求める向きがあるのだと思うが、高等学校という教育の場に、果たしてそれが必要なのだろうか?との疑問をどうしても持ってしまう。
それがこの地域の保護者たちに、社会認識の中で中堅の部類に入る私立高校に対して、妙なブランド意識を持たせていると思う。
校舎の豪華さや、最先端の設備以上に考えるべきことがあるのではないか。そんな思いを持つことは多い。

二つ目は、進学実績である。
一般的に公立高校よりも、大学への進学実績は私立高校の方が良いと言われているが、果たしてそれが事実であると言えるのだろうか。
どこの私立高校にも、特待制度がある。特待制度とは、その受験者が本来入学するべきレベルの高校よりも下の高校に入学することが条件で、入学金や授業料が免除される。
私立高校の進学実績とは、本来その高校に入るべき生徒ではない生徒たちの実績である可能性がある。さらには彼らに複数の大学、例えば早慶上智に合格できる生徒に、合わせてMARCHを受験させる。あるいはMARCHに合格できる生徒に日東駒専を受験させる。つまり公立高校以上に私立高校が、こうした受験実績の底上げがなされているとは考えられないか?
つまりその学校の進学実績イコール受験指導の充実とはならない部分があるとは言えないだろうか。

三つ目は、その学校に対する保護者の満足度と、生徒たちの満足度の差だ。
一般的に公立高校に比べて、私立高校の方が保護者の満足度が高いように思う。
この部分に疑問がある。
保護者の満足度を上げることをマニュアルに近い形で優先しているがために、肝心の生徒の満足度を犠牲にしていないか?との疑問である。

結局のところ私立高校に出向いて、募集担当の先生と話をさせていただいたり、校内を案内させていただいて感じるのは、生徒のことを考えて運営しているというよりも、設置者一族とその周辺の人たちの裕福な生活を維持するための場、言い換えれば商業的な匂いの漂いをどうしても感じることが多い。
学校説明会の話にしても、どこまでが本当で、どこまでが嘘であるのか?ということを、聴力とは違う、心の察知をしてしまっている自分がいたりもします。

その学校は、東久留米にある。
東川口駅から武蔵野線と西武線を乗り継いで約一時間。線路沿いに続く学園町の中に、その学校はある。
幼稚園から最高学部である大学までが、東京ドーム何個分もの広い敷地の中に入っていて、創立100年の中で、いまも様々な分野で活躍する卒業生たちを輩出している。

「これだけの施設を、なぜこんな生徒数で維持できるのですか?」
と、案内を買ってくれた先生に聞くと、
「そう、私も初めてここにきた時に、同じ疑問を持ったのです」
との答えが返ってきた。

帰りに、隣接する喫茶店に案内されたが、その隣にはクッキー工場があった。
どうも学園の附帯事業の利益が、学園に入ること。そして卒業生や在校生からの寄付金があるという。
よくは分からないが、授業料だけでは維持できない施設の維持を、この学園なりのやり方で維持しているということだと思う。

何人もの生徒や先生方とも、話をした。
どの方たちも、こちらが、背筋が伸びるような、そんな品の良さを感じさせてくれた。
それも訪れたのは説明会等の日ではない通常の授業日だったから、学園内では日常の授業や生活が行われていたはずである。つまり他の私立高校でよくありがちな、説明会仕様でない通常の学園の様子であったのだと思う。
学園を後にして、駅への道を歩きながら、こうした私立学校は有りだと思ったし、もしかしたら本来の私立学校の姿が、ここにあるのではないかとも思った。

本来あるべき私立学校の姿とは、その学校の教育理念に賛同した教職員が集まり、公立高校にはないその学校独自のやり方で、生徒たちの人間的、学力的な成長を目指すことにあるはずである。
私立学校が有名大学への進学実績を求めることも有りだとは思う。しかしその学校独自の人間力の養成法がなければ、その学校の生徒たちは単なる点取りに夢中なだけの人間になってしまう。
その結果、卒業後に困るのは生徒自身であると思うし、やがて我が子の成長を期待していた保護者たちは大きな落胆を味わうことになるのではないか。

いま社会は、多くの人たちに他人に対する思いやりの気持ちや、本来人間が持つべき品というものをないがしろにするように求めている時代だと思う。
この地域の中学生たちの内面の変化は、もしかするとその表れであるのかもしれない。そんな時代の中での学校選びは、より難しいものになって来た。

2018年10月12日金曜日

子供たちに、必要なこと 2018.10

いまの時代を生きる子供たちにとって、必要な能力って、いったい何なのだろう?

きっと巷では、英語力という答えが圧倒的に多いはずである。
確かに今年、小学校の5年生からかなり本格的な英語授業が始まった。その内容を一言で言えば、中学の学習範囲を耳から理解させようとしているように僕には思える。これからもっと、英語という教科は学校での学習には欠かせないものとなっていくのではないか。
それから、国語力を求める保護者たちも意外に大勢いるように思う。
我が子が小学校の高学年に近づくにつれて、読解力の不足が気になる保護者がいるのだと思う。

ただこの読解力については、実際に塾で子供達を相手にしている者としては、やや疑問の気持ちを持っている。確かに読解力の問題は深刻だったりもするのであるが、生徒たちのやる気の問題に大きく関わっているようにも思えてくる。つまり明らかに読解力が不足している子供達もいるが、読解力の問題ではなく、やる気がないために問題が解けない、あるいは解こうとしない生徒も大勢いるのではなないか。
例えば算数の文章題を解こうとしない、国語に興味を持たない。保護者はすぐに読解力が不足しているのではないか?と考えがちではあるが、むしろ子供達のやる気の問題である可能性もあるはずである。
とはいえ、上のことに該当しない、読解力に問題を抱えている子供達もかなり多くいる。実はいま、自宅で小さな塾を長年続けている塾長には、この問題が悩みの種になっている。

僕はこのブログやFacebookで、ずいぶんとこの地域の小中学校の問題を書かせていただいている。初めは学力の問題ばかりが気になったいたけれど、いまではそうなってしまった原因を考えることが多くなった。
いま気になっているのは、読書をする子供達の割合が少ないことと、学力の関係である。
それを考えている僕にも、果たして読書の経験を持つ子供達と、学力の関係は分からない。ただ文章を読み取れる子供達であれば、成績をかなり上げられる自信はある。もちろんここにも、その子供達が現実に向き合えることができるか?という心の問題が最終的には関わってくると思うが、ある程度まで成績は伸びるはずである。
ここでのある程度というのは、川口高校合格(北辰偏差値53程度)のレベルではなくて、市立川口合格(北辰偏差値60程度)のレベルだと思う。もちろん平均偏差値がたいていは北辰偏差値4245程度であるこの地域の中学校の生徒達がである。

読書は、いろいろな人生を疑似体験できる場なのではないかと思う。
よく言葉の数を読書による成果と考える向きがあるが、読書はそのこと以上に、その時その時のストーリーの中で、自分がその登場人物であったなら、どう考え、どう行動するかを想像する場なのだと思う。この経験は、子供たちの精神状態をかなり成長させることになる。
一方読書の経験のない子供達には、それができない。自分が生きているコミュニティー以外の体験がどうしても不足してしまう。当然視野は狭く、家族や身近な知人が話すことが世界の全てであると考えてしまう。それは思考する力の不足を招き、想像する経験が乏しいから、学習意欲を奪うことにつながっているのかもしれない。

それと、いまの人工知能に代表されるコンピューターの発達によって起こる社会構造の変化が気になる。
就労人口の減少は、出生率の低下があるために致し方ないことだけど、その減少と就労人口の関係がどうなるのか? こればかりは小さな塾の塾長には、想像できない。
ただ識者によると、ルーチンワークというのだろうか? 決まりきった仕事のほとんどはコンピューターに代わられていくらしい。またホワイトカラーの仕事も、そのほとんどがコンピューターに代わられるという識者までがいる。
そこで気になるのは、いまの子供たちが成人となった時に、生計を立てるための仕事に就くことができるのか?との疑問である。海外では職場が大規模なオートメーション化を導入することで、仕事を失う事を危惧した労働者たちのデモが行われている模様が報道されているというが…。

小学生の頃から塾に来て、そこそこの高校に入り、一流ではないけれどある程度の大学を卒業し、途中で塾の講師もしてくれて、いまは英語が標準語の職場でSEをしているという若者は、久しぶりに会った酒の席で、
「いまの子供達がおとなになる頃には、仕事がなくなるんじゃない?」
と呟く僕に、
「いや、無くならないでしょう。だってめちゃくちゃ仕事が入ってくるから。本当に倍の数を採用してよ。というのが、職場の総意ですよ」
と言っていた。

これは日々仕事に追われながらの生活をしている彼の本音なのだとは思うけれど、塾長が心配しているのは、彼のレベルに達していない子供達の事だったのです。
地元の小中学校に通い、だいたい上位一割の成績で、彼は電車に乗り高校に通っていた。確か一年浪人はしたけれど、都心にある大学の社会学部か何かに進学し、就職活動の前に英語学校に通い、TOEFLだかTOEICだかは知らないけれど、わりと高得点をとって、子会社ではあるらしいけれど、とある外資系の会社の就職。周囲からは中国語訛りと言われているらしいけれど、社内では英語だけを使い、外人に囲まれて仕事をしている彼のレベルに達していない…子供たちのことが、どうしても気になってしまう。

もしかしたら、十年後二十年後は完全な格差社会になるのかもしれない。
忙しいほど仕事に追われている人たちと、真面目に生きてきたのに、仕事に就けない若者たち。
もしもそんな社会が十年後二十年後に訪れたとして、その格差は何によって生まれるのか?と考えると、それは単なる出身高校や出身大学の違いではなくて、溢れるようにどこからともなく湧き上がる数々の情報の中で、何が自分にとって有益な情報なのかを判断する力なのではないだろうか。そして判断した後で、何年か後の世の中を想像し、自分がいま何をすべかと考え、実行に移せる能力の差なのではないだろうか。
ごく最近まで、そうした能力は属するコミュニティーの中で、きっと人が教えてくれたのだと思う。人と出会い、知り合いとなっていく中で、そうした能力に長けた人たちがもてはやされた時代だったのだと思う。でも世の中はもう完全に変わった。人から教わるのではなくて、自分で自分の羅針盤を持たなくてはならない時代になったのではないか。

子育てにも同じことが言えるのかもしれない。先輩や知り合いの母親達からの情報で子育てをする時代は、もう終わりに近づいている。
溢れながらも、さらにいくらでも入ってくる情報の中で、何が我が子に有益な情報なのかを考え、判断する能力が必要になってきている。保護者のこの差は、きっと子供達の将来に大きな影響を及ぼすことになるのではないか。
そしてそれは子供たちにも同じことが言えて、もう中学校に入学した頃からは、自分で少しずつ判断する能力が必要になって来ているのかもしれない。
ではその能力をどこで身につけるかと言えば、スタートはやはり幼い頃の読み聞かせかだと思う。この読み聞かせの成果は、保護者がどこまで愛情を、聞き手である我が子に掛けられるかにかかっているように思うのであるが、ここで小学校入学後に読書が好きになるのか、嫌いになるかが決まる。

この地域に限らず、いまの時代を生きる子供達は、大多数がゲームを身近な遊びにしているようだ。大勢の大人も子供も、ゲームが蔓延しているコミュニティーの中で生きている。
ゲームを趣味にしたことがない私には、ゲームと学力の関係は分からない。ただここで気になるのは、コンピューターが私たちの生活や仕事に入り込んでくる十年後二十年後の社会は、意外に他人を思いやる気持ちが求められる時代なのかもしれないとの思いがある。
このことについて私は多くの根拠を持たないが、じっと社会を見渡してみると、
以前とくらべて出世や、それに伴う裕福な生活に対する憧れの気持ちが弱くなって来ているのではないかと思うことがある。
それと、コンピューターという名の機械相手の仕事が大半を占めるであろう、未来世界は、「上司」=「カウンセラー」的な役割が必要となるような気がしてしまう。

だから子供達に、ゲームに時間をめっちゃやからと取らせていてはいけないと思う。
子供達には、本を読む時間を与えなければならないし、さまざまなコミュニティーに参加させて、人と共に過ごす楽しさを教えなければならない。
そして自分で情報を取り、その選別された情報の中で、どのように生きて行くか? それを見極めて、実行に移す力を身につけなければならないのではないか。
安行という地で、子供達に学習を教えているだけの私が、なぜそんなことを考えているのかと言えば、いまの子供達が成人となる十年後の社会は、多くの人たちにとって、これまで以上に生き難い時代となっている可能性があると思うからだ。