2018年10月12日金曜日

子供たちに、必要なこと 2018.10

いまの時代を生きる子供たちにとって、必要な能力って、いったい何なのだろう?

きっと巷では、英語力という答えが圧倒的に多いはずである。
確かに今年、小学校の5年生からかなり本格的な英語授業が始まった。その内容を一言で言えば、中学の学習範囲を耳から理解させようとしているように僕には思える。これからもっと、英語という教科は学校での学習には欠かせないものとなっていくのではないか。
それから、国語力を求める保護者たちも意外に大勢いるように思う。
我が子が小学校の高学年に近づくにつれて、読解力の不足が気になる保護者がいるのだと思う。

ただこの読解力については、実際に塾で子供達を相手にしている者としては、やや疑問の気持ちを持っている。確かに読解力の問題は深刻だったりもするのであるが、生徒たちのやる気の問題に大きく関わっているようにも思えてくる。つまり明らかに読解力が不足している子供達もいるが、読解力の問題ではなく、やる気がないために問題が解けない、あるいは解こうとしない生徒も大勢いるのではなないか。
例えば算数の文章題を解こうとしない、国語に興味を持たない。保護者はすぐに読解力が不足しているのではないか?と考えがちではあるが、むしろ子供達のやる気の問題である可能性もあるはずである。
とはいえ、上のことに該当しない、読解力に問題を抱えている子供達もかなり多くいる。実はいま、自宅で小さな塾を長年続けている塾長には、この問題が悩みの種になっている。

僕はこのブログやFacebookで、ずいぶんとこの地域の小中学校の問題を書かせていただいている。初めは学力の問題ばかりが気になったいたけれど、いまではそうなってしまった原因を考えることが多くなった。
いま気になっているのは、読書をする子供達の割合が少ないことと、学力の関係である。
それを考えている僕にも、果たして読書の経験を持つ子供達と、学力の関係は分からない。ただ文章を読み取れる子供達であれば、成績をかなり上げられる自信はある。もちろんここにも、その子供達が現実に向き合えることができるか?という心の問題が最終的には関わってくると思うが、ある程度まで成績は伸びるはずである。
ここでのある程度というのは、川口高校合格(北辰偏差値53程度)のレベルではなくて、市立川口合格(北辰偏差値60程度)のレベルだと思う。もちろん平均偏差値がたいていは北辰偏差値4245程度であるこの地域の中学校の生徒達がである。

読書は、いろいろな人生を疑似体験できる場なのではないかと思う。
よく言葉の数を読書による成果と考える向きがあるが、読書はそのこと以上に、その時その時のストーリーの中で、自分がその登場人物であったなら、どう考え、どう行動するかを想像する場なのだと思う。この経験は、子供たちの精神状態をかなり成長させることになる。
一方読書の経験のない子供達には、それができない。自分が生きているコミュニティー以外の体験がどうしても不足してしまう。当然視野は狭く、家族や身近な知人が話すことが世界の全てであると考えてしまう。それは思考する力の不足を招き、想像する経験が乏しいから、学習意欲を奪うことにつながっているのかもしれない。

それと、いまの人工知能に代表されるコンピューターの発達によって起こる社会構造の変化が気になる。
就労人口の減少は、出生率の低下があるために致し方ないことだけど、その減少と就労人口の関係がどうなるのか? こればかりは小さな塾の塾長には、想像できない。
ただ識者によると、ルーチンワークというのだろうか? 決まりきった仕事のほとんどはコンピューターに代わられていくらしい。またホワイトカラーの仕事も、そのほとんどがコンピューターに代わられるという識者までがいる。
そこで気になるのは、いまの子供たちが成人となった時に、生計を立てるための仕事に就くことができるのか?との疑問である。海外では職場が大規模なオートメーション化を導入することで、仕事を失う事を危惧した労働者たちのデモが行われている模様が報道されているというが…。

小学生の頃から塾に来て、そこそこの高校に入り、一流ではないけれどある程度の大学を卒業し、途中で塾の講師もしてくれて、いまは英語が標準語の職場でSEをしているという若者は、久しぶりに会った酒の席で、
「いまの子供達がおとなになる頃には、仕事がなくなるんじゃない?」
と呟く僕に、
「いや、無くならないでしょう。だってめちゃくちゃ仕事が入ってくるから。本当に倍の数を採用してよ。というのが、職場の総意ですよ」
と言っていた。

これは日々仕事に追われながらの生活をしている彼の本音なのだとは思うけれど、塾長が心配しているのは、彼のレベルに達していない子供達の事だったのです。
地元の小中学校に通い、だいたい上位一割の成績で、彼は電車に乗り高校に通っていた。確か一年浪人はしたけれど、都心にある大学の社会学部か何かに進学し、就職活動の前に英語学校に通い、TOEFLだかTOEICだかは知らないけれど、わりと高得点をとって、子会社ではあるらしいけれど、とある外資系の会社の就職。周囲からは中国語訛りと言われているらしいけれど、社内では英語だけを使い、外人に囲まれて仕事をしている彼のレベルに達していない…子供たちのことが、どうしても気になってしまう。

もしかしたら、十年後二十年後は完全な格差社会になるのかもしれない。
忙しいほど仕事に追われている人たちと、真面目に生きてきたのに、仕事に就けない若者たち。
もしもそんな社会が十年後二十年後に訪れたとして、その格差は何によって生まれるのか?と考えると、それは単なる出身高校や出身大学の違いではなくて、溢れるようにどこからともなく湧き上がる数々の情報の中で、何が自分にとって有益な情報なのかを判断する力なのではないだろうか。そして判断した後で、何年か後の世の中を想像し、自分がいま何をすべかと考え、実行に移せる能力の差なのではないだろうか。
ごく最近まで、そうした能力は属するコミュニティーの中で、きっと人が教えてくれたのだと思う。人と出会い、知り合いとなっていく中で、そうした能力に長けた人たちがもてはやされた時代だったのだと思う。でも世の中はもう完全に変わった。人から教わるのではなくて、自分で自分の羅針盤を持たなくてはならない時代になったのではないか。

子育てにも同じことが言えるのかもしれない。先輩や知り合いの母親達からの情報で子育てをする時代は、もう終わりに近づいている。
溢れながらも、さらにいくらでも入ってくる情報の中で、何が我が子に有益な情報なのかを考え、判断する能力が必要になってきている。保護者のこの差は、きっと子供達の将来に大きな影響を及ぼすことになるのではないか。
そしてそれは子供たちにも同じことが言えて、もう中学校に入学した頃からは、自分で少しずつ判断する能力が必要になって来ているのかもしれない。
ではその能力をどこで身につけるかと言えば、スタートはやはり幼い頃の読み聞かせかだと思う。この読み聞かせの成果は、保護者がどこまで愛情を、聞き手である我が子に掛けられるかにかかっているように思うのであるが、ここで小学校入学後に読書が好きになるのか、嫌いになるかが決まる。

この地域に限らず、いまの時代を生きる子供達は、大多数がゲームを身近な遊びにしているようだ。大勢の大人も子供も、ゲームが蔓延しているコミュニティーの中で生きている。
ゲームを趣味にしたことがない私には、ゲームと学力の関係は分からない。ただここで気になるのは、コンピューターが私たちの生活や仕事に入り込んでくる十年後二十年後の社会は、意外に他人を思いやる気持ちが求められる時代なのかもしれないとの思いがある。
このことについて私は多くの根拠を持たないが、じっと社会を見渡してみると、
以前とくらべて出世や、それに伴う裕福な生活に対する憧れの気持ちが弱くなって来ているのではないかと思うことがある。
それと、コンピューターという名の機械相手の仕事が大半を占めるであろう、未来世界は、「上司」=「カウンセラー」的な役割が必要となるような気がしてしまう。

だから子供達に、ゲームに時間をめっちゃやからと取らせていてはいけないと思う。
子供達には、本を読む時間を与えなければならないし、さまざまなコミュニティーに参加させて、人と共に過ごす楽しさを教えなければならない。
そして自分で情報を取り、その選別された情報の中で、どのように生きて行くか? それを見極めて、実行に移す力を身につけなければならないのではないか。
安行という地で、子供達に学習を教えているだけの私が、なぜそんなことを考えているのかと言えば、いまの子供達が成人となる十年後の社会は、多くの人たちにとって、これまで以上に生き難い時代となっている可能性があると思うからだ。

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