2019年4月14日日曜日

高校受験に資格は、必要なのか?2019.4

毎年年度の初め頃になると、資格に対する問い合わせをいただく。
英検等でどの級を受けたら良いか? あるいはそのための学習方法は?との質問である。
シローズは、表立って資格習得のための学習指導は行ってはいない。とは言え、困っている生徒がいれば、対策のための授業を行ったりもしている。

ただ英検にしても、数検や漢検にしてもその勉強が5教科で行われる高校入試の得点にどれだけプラスになるかというと、それはたぶんかなりゼロに近いと思う。英語の入試問題は英検とは違う方向に今のところ行っているし、数学でも入試で高得点を取るには、数検合格のための学習とは視点の違う学習が必要となっている。漢検しかりだ。そもそも埼玉県の国語の入試問題では漢字の配点はそれほど高くはない。

でも保護者の方は言うと思う。資格を持っていると、入試で合格しやすいと聞いた…ことがあると。また今年もそんな声があっちにもこっちにも、湧き上がっているはずである。
確かに公立高校入試では、入試得点、内申点の他に持っている資格によって加点が付く。合否のボーダーラインにいる生徒は、その資格を持っている、持っていないによって合格・不合格が決まっているかと言えば、それはすなわちイエスだ。
ただ僕などはいつも、でも………という言葉を思い浮かべてしまっている。

英検の場合、市内の底辺校を除くとたいていは3級以上が加点の対象となっている。市立川口、川口北となると、確か準2級以上が加点の対象となるはずである。
そこで疑問が生じる。この地域の子供達が英検で3級、準2級で合格をするために、どれほどの労力が必要だろう。それを思うと、北辰等の偏差値や内申点(通知表の評定)を上げる方がはるかに簡単なように思えるのは、僕だけではないと思うがいかがだろうか?

受験は保護者の性(さが)が飛び交う場だ。
どんな保護者であっても、我が子と自分の選択の正しさを周囲に漏らしたくなるものなのかもしれない。そのパイの大きさで、中学受験や大学受験以上に高校受験は、きっと飛び交う情報の量が大きいのだと思う。
ただそれが性(さが)に根ざしたものであるがために、その情報は我が子の努力や自分の選択を賞賛する形になり易い。
この地域の保護者たちが言う、資格がないとなかなか合格は難しい…という言葉は、もしかしたらそうして広まったものなのかもしれない。
確かに市内のある高校は、3級以上の資格(4級とも言われる?)取得者には不合格を出していないという話を耳にしたことがある。
でもだからといって、それが全ての高校に通用するものではないはずである。

いまあまり表に出てきていない問題として、高校入学後に授業についていけない学生が増えていると聞く。そんなときにたいていの保護者たちは、「〇〇高校はレベルが高いから、ついていくのが大変…」という言葉を使うのだと思う。
でもそれはちょっと違う事情があって、中学の内申によって合格した高校受験だったとの見方もできる。つまりその高校の合格者平均偏差値よりも低い学力の生徒が、内申点の高さで合格通知を受け取る。
それはそれで立派な合格には違いないが、内申で合格した生徒は、授業が始まった途端に周囲の人たちとの学力のギャップを感じるはずである。

資格についてもそれと同じ状況がある。
高校合格のために出来るだけ資格を取ろうとする。本来は入学後に必要な学力を蓄えなければならないときに、資格取得のために時間を使う。
その後、志望の高校に合格したとすれば、保護者は「やっぱり資格は必要だった…」と思うのかもしれない。でも資格試験の内容と高校入学後に要求される学力はかなり異質である。

県入試はこれまでも、そしておそらくこれからも、中学校の成績と入試得点の合算で合否が決まていくのだと思う。その他にも生徒会活動や資格が加算されていく。
でも文科省が決めている高等学校のカリキュラムの成果は、入試で高得点を取る力で決まるのだと思う。
それを身につけるために何が必要かと言えば、1年次からの中学授業の内容よりも深い部分の学習であるはずである。とくにこの地域では、その必要性はひどく高いし、これからもその必要性は増すばかりなのだと思う。

2019年3月16日土曜日

高校受験が終わって…シローズ塾長のよもやま話2019.3

1、高校入試が終わって思うこと

高校入試が終わった。
それほどまでに意識をしていないつもりでいたのに、急に身体が身軽に感じるのはなぜだろう。季節柄、ちょっと前まで外に出る時に着ていたオーバーを脱いだのと同じような感覚がある。

県入試の問題を全て細かく見たわけではない。ただ印象としては、全体的に難易度が下がったのではないか? との印象を持っている。
今年この地域の受験生たちの合格が多かったのも、その影響と言えなくはないのではないか。
昨年よりも英語が少し簡単になったような気がする。それと数学の最後の問題を受験生の何割が解けたのか? との疑問を持った。
これは選択問題の方の印象で、共通問題の数学を現中学二年生に解説した印象では、解きやすい問題だったではないか? というものだった。
共通問題を生徒にいきなり渡されて、ホワイトボードを前に、その場で解いていったわけであるが、それほど僕の持つマジックは止まらなかった。二学期以降に実施された北辰テストの方が、もっと難しかったような気がする。
どうなのだろう。ここ何年かは、共通問題は解きやすく、選択問題は若干の難易度の上下動はあるものの高い難易度を維持するような気がする。

たくさんの15歳の少年少女が試験に臨み、その結果として合格者と不合格者に分かれる。ただその前に北辰テストや中学校の校長会テストがあるわけだし、内申点は12月に知らされているはずだから、県入試の合否は受験前からある程度想像できる試験であるとも言える。
ただ合格と不合格の分かれ目に位置する生徒と、川口北以上の高校の受験者にとっては、やはり合否は時の運的な意味合いがあるのかもしれない。そこで合格するか?、不合格になるか?というのは、大多数の生徒にとっては、どこの塾に通っていたかが関係しているような気がする。

それと今年、この地域の蕨高校以上の合格者が例年よりも多かった。
選択問題の英語の難易度がやや下がったことが、関係しているのではないだろうか。もしも昨年同様の英語問題が出されたとしたら、もっと合格者は少なくなったような気がしている。

実は選択問題の英語と数学の出来には、その生徒たちがどんな学習を小学生の頃からしてきたか? ということが、大きく関係しているような気がする。そして、どうも北辰等の偏差値では測りきれない何かがあるような気がしてならない。
つまり同じ偏差値65、または70であっても、選択問題の出来には差が出ているのではないか? そんな印象がある。

これが何に関係しているのか? 僕にはうまく説明できないのであるが、おそらくこの地域の場合という註釈がつくように思う。
たぶんそこには、小学校からの授業のレベルが大きく関係しているのではないか。偏差値70の受験生たちが一斉に入試に当たったとしたとして、どの地域の受験生なのかによって、出来には差が出てしまうのではないか?  この地域の塾が、それをどこまで払拭できるかが、塾の努力にかかったいるような気がしてならない。


2、浦和高校のこと

浦和高校について、何度かブログで書いたことがある。
正直に言う。勉強をすることが嫌いでない普通の小学生が、3年生の終わりか4年生の1学期までに塾に来てくれて、指導を任せてくれたとしたら、僕は浦和高校に受験するまでの成績を身につけさせる自信のようなものがある。一女にとっても同様だ。
そこには、あれをこうして…、次にこれをして…、という流れがあるように思う。もちろん障害物もたくさんあって、最終的には生徒本人とその保護者の気質のようなものが関係することになると思う。

ただ最近考えてしまうことが多くなった。
果たしてこの地域の子供たちにとって、その二校に合格できたとして、それが幸せなのか? ということを。
いま二校とも、国公立や有名私立高校の滑り止めとなった感がある。その辺が大宮や、かなりレベルを上げてきた浦和市立と大きく異なる点なのではないか。

中学受験を経験し、あるいは国公立や都内にある有名私立に合格するための特殊な受験勉強をしてきた生徒には、公立の小中学校で普通に学んできた子供たちとの大きな違いがある。
それはもちろん知識量の部分もあるが、それだけでなく、テストを前にした時の集中力の高め方であったり、授業中の先生の説明の中でポイントを探り取る力のようなものがあるような気がする。そこでの差は、当然テストの得点に現れるだろうし、さらに高校に入ってからの知識の詰め込み方にも差が出てしまうようである。そして二校がクラスでの上位の生徒を対象とする授業を続けていることも、その格差を大きくしているようである。
受験期よりもかなり集中を高めて、睡眠時間までを削るような机の向かい方をしたとしてもなかなか成績が上がらない。そのときに小学校、中学校を通して、学年で一、二の成績を取っていた少年少女たちが、どんな思いをするのか? そこでの挫折感は、将来に対する絶望感に近いものがあるのではないか。

ここでも、同じ偏差値70であっても学力の質が違う…ということが、その原因になっているような気がする。
小学5年生から本格的に英語の授業が導入されて、県庁所在地や県西部の駅近の住宅街の学区で学んできた、この地域とは違う地域の価値観の中で成長してきた彼らとは違う彼らが、高校入学後にこれまでに体験したことのない絶望感を感じとったときにどうなってしまうのか? それを塾を続けている間、僕は考えなければならないと思っている。


3、多くの子供たちが抱える闇

小学校から高校までに通う子供たちの悲しい出来事を知ったときに、僕はいつも考え込んでしまう。
きっといま大多数の子供たちの中には、「それぐらいのことで…」という文化があるのだ。それは通知表の2という評定が、いまの絶対評価の中では決して取ってはならないという事実を、自分だけでない他の多数の級友たちが2を取ることで、普通の評定だと思い込んでいるのと同じ愚かさなのだと思う。
この考えがある限り、悲しい出来事はきっと続いてしまうのではないか。毎日塾に集まる子供たちを見ながら、ときどき僕は、そんな思いに駆られることがある。

いまに始まったことではないが、塾のスリッパは頻繁に破かれている。去年はトイレの壁紙が少しずつ破かれたり、トイレの床一面に大量の水が撒かれるということが何度も起きた。
悪気がないのは分かる。ちょっとした出来心だということも。でもそのちょっとした出来心が、塾を一生の仕事であると思い込んでいる僕とその家族の心に与えるダメージの大きさを思うと、悲しい出来事が起きたとき、その対象となった子供たちの悲鳴をいつも思い浮かべてしまう。

子供たちは、いまその子の前に立ちはだかる壁を保護者がいつも払い除ける中で大きくなってきている。我が子に舞い降りる困難は保護者が払い除けなければならないという意識は、いま保護者の中で共通認識になった感がある。
様々な習い事であっても、指導者たちが子供たちを成長させるために壁を用意することを悪だと考える社会理念がきっとあるのだ。
その結果、この地域の子供たちは、中学入学後に避けきれない壁の高さに怯えだすことになる。

頑張って向かおうとする、いまとなってはごく少数の子供たちはやがてその壁を乗り越えていくのだろう。でもそれができない大多数の子供たちは、傷を舐め合うことに終始しまっているのかもしれない。その結果、自分で壁を乗り越えることを諦めた子供たちは小さな集団を作って徒党を組む。
時には壁を乗り越えようとする級友の邪魔をしでかそうとする集団が出てくるし、それを悪だと考える集団に属する子であっても、無意識のうちに悪意の無い嫌がらせに走ってしまうことがあるのだと思う。

問題が起きた時、悲しみをこらえられない人たちは、学校に責任を負わそうとする。でもそれで解決する問題ではないのではないか。
なぜなら原因を作り出していたのは、その被害者の周りにいた個人としては善意に満ちた純真な子供たちだから。
問題はそうした子供たちの割合なのだと思う。
その割合が高くなると、悲しい出来事を引き起こしてしまう可能性が一気に高まってしまう。この地域では、そこから抜け出すための高校入試なのかもしれない。