安行中my Love というタイトルをつけたのですが、たぶんこの話は戸塚の中学でも言えることだと思っていますし、鳩ヶ谷中も神根中も新郷の東中も、もちろんもう一つの安行の中学である安行東中でも言えると思っています。
ただ割合は違うかもしれません。
安行中では9割を超えているように思うんですけど、他の中学ではもう少し少ない割合になると思っています。
偏差値を取り巻く事情
僕が塾を始めた30数年前、今よりも定期試験の学年順位と偏差値の高低は一致していたとように思います。それが少しずつ崩れてきて、たぶん10年ほと前からはかなり定期試験の成績と偏差値の食い違いは広がってきている。
定期試験で90点以上の得点を取った生徒の偏差値が60を大きく下回るようなことがわりと頻繁に起きているような気がします。
だから定期試験の成績の方にどうしても保護者の方や生徒たちの目が行きがちな状況がやっぱり続いているんですけど、そういった話を耳にする度に首を傾げたくなる自分がいます。
こんな子がいました。もうその子は30歳くらいになっているはずですから書かせていただくのですが、その子は中学に入学してから、この地区ではわりと名前が知られている塾に通い、その塾の指導もあって、常に学年順位で中学の中で5番くらいに入っていた。
その子は中3になって、他の子たちと同様に北辰テストを受け出した。ところが偏差値が上がらない。
50台半ばの偏差値で、本人もお母さんも期待して高校受験とは違うことになりそうな状況で僕の塾に来てくれた。
授業をしてみると、偏差値が上がらない原因はすぐに分かった。
英語は文法の知識ゼロに等しいし、数学は解き方の暗記がベースになっているために、少しでも基本問題から外れると解けない状況があった。
その後少しずつ偏差値を上げて、その子は60を少し超える高校に進学した。
そういうことって、いまもわりと頻繁に起きていることだと思う。
塾に通う。塾は定期試験の成績を上げることを第一目標に指導をする。
その結果確かに中学の成績は上がるのだけれど、それによって保護者の方も子どもたちも大きな安心感を得るだろうし、きっと通っている塾の良い評判を母娘で周囲に伝えるだろうけれど、そうした指導では高校受験の場で何点取れるかの指標である偏差値を上げることはできない。
塾側の方も例えば数学の指導で、生徒が分からない問題の解き方を説明する。その次にはその問題の類似問題を解いてもらう。それで理解をしてもらうという手法は、生徒である子供たちに負担をかけないはずだから、指導しやすい形なのだと思う。個別指導の塾ではそうした指導が一般化しているようである。
でもそうした指導は、この地域の中学生には大きな危険を孕む。
中3の二学期以降に数学の偏差値が大きく下がる傾向が見られているから。
偏差値が下がらない指導とは、もっと生徒たちにも負担をかける指導が必要になる。解き方の説明ではなくて、なぜそういった解き方をしなければならないのか?の理解が必要となるからだ。
でもそうした指導を行なっている塾は本当に少なくなった。
いまほとんどの塾は解き方の説明から始まって、類似問題の演習で理解を深める手法をとっているはずである。
他の地域ならいいのかもしれない。でもこの地域でそれを行うと、その指導のせいで、やがて偏差値を下がることになる。
偏差値が下がる
近くの中学ではたぶん9割以上の生徒が、中3の2学期以降に偏差値を下げる。
近くの中学ほどでなくても、戸塚、神根、鳩ヶ谷、新郷にある中学でもかなりの確率でこの時期に受験生たちは偏差値を下げることになるのだろう。
一番下がるのが数学で、その次が英語。国語や理科や社会は若干上がる生徒も出てくるが、たいていの場合数学と英語の落ち込みが大きいために、全体として偏差値は次第に、時には急激に下降していくことになる。
たぶん2から5くらいの偏差値の落ち込みはもう常識内で、中には10近く偏差値を下げる子たちが出てくる。
県内の学力レベルの高い地域の生徒たちが猛烈に受験勉強をする中で、小学校からの学力レベルの低い学校での授業が仇となって、次第に下がっていくという状況である。
ただ下がらない生徒も出てくる。結果として、その子たちが浦和西や蕨、浦和市立や一女や浦和に入るわけなのだけれど、どんな子が入れるのかと言えば知能指数が高い、いわゆる頭の良い子に限られているのが現状である。
でも普通程度の知能指数の持ち主であっても、本人の努力と塾の教え方でそういった高校に合格できる子がいる。僕はそれを目指して塾を続けてきた部分があるのだけれど、その努力ができる子がここ5年間でとても少なくなった。
僕はそのことを痛感しながら、時の流れの大きさを感じながら塾を続けている。
塾は授業料を払ってくれる保護者の皆さんの満足感を常に気にしながら、運営を続けなければならない。
それなのにこの地域では、受験が近づくにつれて偏差値が下がりだす。塾に通わせたのに成績が上がらないどころか下がってきたじゃないか? それに似た言葉を僕も言われたことがある。
もうそれを言われてしまうと、返す言葉が見つからなくなる。
小学校の授業がとか、中学の授業と入試問題の違いとか、コロナ禍以降とくにアクティブラーニングが導入されて以降のことなどいくつかの言葉が浮かんできたけれど、そんなことを口にするわけにもいかなくて、ただ黙り込むことしかできなかった。
そうならないためにも 僕はいつも塾の教室を開放し、生徒たちに出来るだけ机に向かってもらおうとしている。
北辰対策は必要なのか?
2年前、11月の北辰テストの結果が戻ってきた頃だったと思う。
二人の生徒が、元気を無くしているように僕には見えた。明らかに彼らの様子は普段の姿とは違っていた。
話を聞いてみると、自分の偏差値に比べて同級生たちの偏差値が高く出ていることで不安を感じているというのだった。
もちろん僕も彼らの北辰の偏差値は知っていた。知っていたけれど、今回の偏差値からどのように合格点まで持っていくのか?ということを考えていたし、僕にはそれほど彼らの偏差値を悲観する気持ちはなかった。
むしろこれから公立の受験日まで、どうやって彼らのペースを上げていくのか?ということに気持ちは移っていたように思う。
でも彼らは同級生たちとの偏差値の対比で悩んでいたようだった。
誰々は偏差値を大きく上げたのに、自分は全く上がっていないとか。そうしたことで悩みを抱えていたようである。
僕は彼らに言った。
結局偏差値を上げた子って、通っている塾が北辰対策をしている子なんじゃないの?
彼らが頷いた。
僕の塾は北辰対策の類をまったく行なっていない。
以前少しの期間行なったこともあるけれど、それが一時的な偏差値を上げる力しかないことをあらためて知った。
それと公立私立の入試問題と北辰テスト等の模擬試験問題の間に内容的な隔たりがあって、例えば北辰テストの偏差値が即入試当日の得点に現れるという状況でなくなったこともやはり大きいと思っている。
では何のために北辰テストがあるかと言えば、毎回出てくる偏差値を見て、自分の足りない学習内容を確認するためにあるように思っています。
もういまの入試問題のスタイルだと、毎回の北辰テストのA評価B評価なるものなど、何の価値もないのでは…とすら思うことがあります。
時代の流れは、塾が北辰対策をすることが当たり前になってきていて、北辰対策を行なっているのかどうかということが、塾選びにも影響しているようにも思いますが、何だかそこに踏み込めないでいる自分がいます。
何よりも毎月の授業料や講習代の他に、一時的な成績アップしか期待できない北辰対策の費用をいただくということが、やっぱり僕には踏み込めない一線になっています。
結局北辰対策は、保護者と生徒にとっては精神安定剤で、塾にとっては授業料以外の収入源になっているというのが実情だろうし、また別の面では指導の欠点を我が子を託している保護者から隠すために必要な面もあるのかもしれない。
僕は前に座る二人の中3生にそんな話をしていた。
もしも過去2年分の11月の北辰テストをみんなに解かせて、丁寧に解説したとしたら、偏差値上がると思わない?
彼らが二人とも頷いていました。
だからさあ、北辰対策を受けた生徒の偏差値が上がったとしても気にすることないよ。
このとき僕の話を聞いていた二人の生徒は、一人が市立川口に、もう一人は蕨に合格した。
彼らが嫉妬していた同級生たちは公立が不合格になったり、彼らよりも低い高校に合格したらしい。
こうした状況は、実はときどき起こっている。
近くの中学で入試結果がすべて出揃ったとき、上位校の合格者の半分以上がうちの塾だった。そうしたことは、これまでに何度もあった。
偏差値を上げるためには…
偏差値を上げるためには、中学の授業とは違う内容の学習が必要になっている。
入試の問題とこの地域の中学授業の内容がかけ離れてきているというのがこの原因だと思う。
やっぱりそのためには塾の勉強が必要で、ただ塾に入塾する時期がこの地域では遅くなってきているし、とくに近くの中学では塾に通わないで高校受験を迎える子たちが増えているという話も耳にしている。
それとこの地域ではとくに中学校の学年順位の方に目が行きがちであることも、偏差値の上昇を食い止めている面があるのだう。
塾を長くやっていると、生徒なりの偏差値の上げ方のようなものが見えてくる。
僕の言う通りの勉強をしてくれれば、偏差値は上がる。そんな自信さえ思えてくることもあるのだけれど、やはりそのために生徒の学習量がどうしても必要となる。
今年、僕の塾は10何年かぶりに浦和西以上の高校の合格者がゼロになった。その上不合格者は例年以上に出てしまった。
すべての結果が出たとき、心の中で勉強時間が足りなかったんだよな。という言葉が浮かんだ。
やっていると彼らは言うかもしれないけれど、時間が少なかった。それに集中していたかと言えば、何をするかよりもその場にいることの方に気持ちがいっているような子までいた。
その学年によって、生徒たちの姿は異なる。
今年の生徒たちは全体として、勉強モードになりにくい生徒たちだったのかもしれない。
今年はどうか? まだ分からない。僕は今年も生徒たちが机に向かってくれるようにあの手この手を差し出そうとしている。