2016年10月19日水曜日

国語 > 数学「 非常に厄介な教科… 」

シローズの場合、数学という教科は塾長である僕が、その他の4教科は講師たちが教えるというのがスタイルになっている。そして北辰テストなどの模擬試験では、塾内平均で僕の教える数学が他の教科に比べて高い偏差値が出ている。もちろんこれは僕の教え方が良いというよりも、むしろ塾長である僕の塾内での影響力のためではないかと思う。

数学という教科は、非常に厄介な教科だ。
英語や他の教科のように勉強をしただけ成績が上がるというものでは、どうもないらしい。小学校入学以後の算数があって、その日々の積み重ね…が、模擬試験の偏差値やら、高校入試時の得点を作る。
また精神状態の影響が出やすい教科なのだと思う。これも英語や他の教科とも違う。気持ちの波によって、同じ問題であったとしても、解けない日があったりする。また逆に何日か前に解けなかった問題が、いとも簡単に解けたりすることもある。
だから数学は、非常に厄介な教科なのだと思う。

さらに厄介なのは、先日のブログにも書かせていただいたことにも関係するのであるが、小学校の算数授業が「考えること」から「理解すること」により重視されて来ていることも、その厄介さを増すことにつながっているように思う。

塾を始めてからというもの、計算中心の算数の習い事をしてきた生徒が塾に来ると、一切文章題を解こうとしない態度に驚かされることが何度となくあった。彼らは早く計算問題を解くことが算数あるいは数学だと勘違いしているのだと思う。それと同じことが、前述の小学校授業が「考えること」よりも「理解すること」に重視されていることにも言える。文章題を解けるようになってもらうために考えることを生徒に求めても、「なんで教えてもらえないのか?」との反応が多くなってきてしまっている。

またこんなことも起きている。比較的指数が高い生徒の場合、「考えること」の時間的・内容的量が少なくても定期テストの高得点と、模擬試験での高偏差を取る中学生がいる。しかしこうした生徒に限って、中学3年生の2学期以降、急に成績が下がるケースがある。
たぶんこれは、「考えること」ではなくて、「理解すること」で問題を解いてきたためではないか。同じことは、例題を見て参考にしながら解くという解き方にも言えるかもしれない。
こうした数学の勉強の仕方は、子供たちの学力の伸びを邪魔するばかりか、高校入学後一切数学が分からなくなることにも繋がってしまうようである。おそらく理系の大学への進学は無理であろう。中学3年生の途中で、大学はほぼ私立文系と決まってしまうといのは悲しいことだ。

こんなことが言えるかもしれない。
数学以外の英語など4教科はお正月に飾る鏡もちではないか…。苦労してもち米を蒸し、苦労して餅をついて、熱い熱いと言いながら丸めて、もう硬くなっている鏡もちの上に乗せる。当然苦労してたくさん丸めることができれば、鏡もちの高さは高くなる。この高さが学力の高さを意味する。と、そんなものなのできないだろうか?
だから数学以外の科目は、急に努力をしたとしても、その努力の大きさによっては成績を上げることができる…そういった傾向があるのではないか?

しかし数学は、こうはいかないと思う。きっと鏡もちは鏡もちでも、土台が必要な鏡もちなのだ。土台がしっかりしていないと、蒸して、ついた餅を重ねることができない。この土台がしっかりしたものになるかというのが、小学校入学以降どのように算数を勉強してきたか?なのだろう。

と、ここまで書いてきて、シローズの塾長はあることに気づいてしまっていた。数学以外の英語など4教科という言葉を使って来ているが、もう一つ厄介な教科があるのに気づいてしまったのである。それは国語である。

シローズでも、去年の中3生で1人、そして今年も国語の学力が他の教科に比べて異常に低い生徒が出てきている。
彼らに共通するのは、真面目に勉強してくれているのに成績が思うように上がらないということだ。これは私の想像なのであるが、国語力の無さが他の教科の成績上昇にブレーキをかけているようにも思えてくる。

彼らは言葉の意味を知らないのだ。それも中学3年生のレベルとしては、異常なほど知らない。小学校入学後、何も問題なく過ごしてきた彼ら…おそらく模範生に近い彼らが、なぜこのような壁にぶつかってしまうのか? 不思議に思えてならない。


数学もそして英語など残りの3教科も、いくら苦手であったとしてもその教科だけの話である。でも国語に限っては違う。他の教科の成績までを下げる。一番厄介な教科かもしれない。

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