2019年3月16日土曜日

高校受験が終わって…シローズ塾長のよもやま話2019.3

1、高校入試が終わって思うこと

高校入試が終わった。
それほどまでに意識をしていないつもりでいたのに、急に身体が身軽に感じるのはなぜだろう。季節柄、ちょっと前まで外に出る時に着ていたオーバーを脱いだのと同じような感覚がある。

県入試の問題を全て細かく見たわけではない。ただ印象としては、全体的に難易度が下がったのではないか? との印象を持っている。
今年この地域の受験生たちの合格が多かったのも、その影響と言えなくはないのではないか。
昨年よりも英語が少し簡単になったような気がする。それと数学の最後の問題を受験生の何割が解けたのか? との疑問を持った。
これは選択問題の方の印象で、共通問題の数学を現中学二年生に解説した印象では、解きやすい問題だったではないか? というものだった。
共通問題を生徒にいきなり渡されて、ホワイトボードを前に、その場で解いていったわけであるが、それほど僕の持つマジックは止まらなかった。二学期以降に実施された北辰テストの方が、もっと難しかったような気がする。
どうなのだろう。ここ何年かは、共通問題は解きやすく、選択問題は若干の難易度の上下動はあるものの高い難易度を維持するような気がする。

たくさんの15歳の少年少女が試験に臨み、その結果として合格者と不合格者に分かれる。ただその前に北辰テストや中学校の校長会テストがあるわけだし、内申点は12月に知らされているはずだから、県入試の合否は受験前からある程度想像できる試験であるとも言える。
ただ合格と不合格の分かれ目に位置する生徒と、川口北以上の高校の受験者にとっては、やはり合否は時の運的な意味合いがあるのかもしれない。そこで合格するか?、不合格になるか?というのは、大多数の生徒にとっては、どこの塾に通っていたかが関係しているような気がする。

それと今年、この地域の蕨高校以上の合格者が例年よりも多かった。
選択問題の英語の難易度がやや下がったことが、関係しているのではないだろうか。もしも昨年同様の英語問題が出されたとしたら、もっと合格者は少なくなったような気がしている。

実は選択問題の英語と数学の出来には、その生徒たちがどんな学習を小学生の頃からしてきたか? ということが、大きく関係しているような気がする。そして、どうも北辰等の偏差値では測りきれない何かがあるような気がしてならない。
つまり同じ偏差値65、または70であっても、選択問題の出来には差が出ているのではないか? そんな印象がある。

これが何に関係しているのか? 僕にはうまく説明できないのであるが、おそらくこの地域の場合という註釈がつくように思う。
たぶんそこには、小学校からの授業のレベルが大きく関係しているのではないか。偏差値70の受験生たちが一斉に入試に当たったとしたとして、どの地域の受験生なのかによって、出来には差が出てしまうのではないか?  この地域の塾が、それをどこまで払拭できるかが、塾の努力にかかったいるような気がしてならない。


2、浦和高校のこと

浦和高校について、何度かブログで書いたことがある。
正直に言う。勉強をすることが嫌いでない普通の小学生が、3年生の終わりか4年生の1学期までに塾に来てくれて、指導を任せてくれたとしたら、僕は浦和高校に受験するまでの成績を身につけさせる自信のようなものがある。一女にとっても同様だ。
そこには、あれをこうして…、次にこれをして…、という流れがあるように思う。もちろん障害物もたくさんあって、最終的には生徒本人とその保護者の気質のようなものが関係することになると思う。

ただ最近考えてしまうことが多くなった。
果たしてこの地域の子供たちにとって、その二校に合格できたとして、それが幸せなのか? ということを。
いま二校とも、国公立や有名私立高校の滑り止めとなった感がある。その辺が大宮や、かなりレベルを上げてきた浦和市立と大きく異なる点なのではないか。

中学受験を経験し、あるいは国公立や都内にある有名私立に合格するための特殊な受験勉強をしてきた生徒には、公立の小中学校で普通に学んできた子供たちとの大きな違いがある。
それはもちろん知識量の部分もあるが、それだけでなく、テストを前にした時の集中力の高め方であったり、授業中の先生の説明の中でポイントを探り取る力のようなものがあるような気がする。そこでの差は、当然テストの得点に現れるだろうし、さらに高校に入ってからの知識の詰め込み方にも差が出てしまうようである。そして二校がクラスでの上位の生徒を対象とする授業を続けていることも、その格差を大きくしているようである。
受験期よりもかなり集中を高めて、睡眠時間までを削るような机の向かい方をしたとしてもなかなか成績が上がらない。そのときに小学校、中学校を通して、学年で一、二の成績を取っていた少年少女たちが、どんな思いをするのか? そこでの挫折感は、将来に対する絶望感に近いものがあるのではないか。

ここでも、同じ偏差値70であっても学力の質が違う…ということが、その原因になっているような気がする。
小学5年生から本格的に英語の授業が導入されて、県庁所在地や県西部の駅近の住宅街の学区で学んできた、この地域とは違う地域の価値観の中で成長してきた彼らとは違う彼らが、高校入学後にこれまでに体験したことのない絶望感を感じとったときにどうなってしまうのか? それを塾を続けている間、僕は考えなければならないと思っている。


3、多くの子供たちが抱える闇

小学校から高校までに通う子供たちの悲しい出来事を知ったときに、僕はいつも考え込んでしまう。
きっといま大多数の子供たちの中には、「それぐらいのことで…」という文化があるのだ。それは通知表の2という評定が、いまの絶対評価の中では決して取ってはならないという事実を、自分だけでない他の多数の級友たちが2を取ることで、普通の評定だと思い込んでいるのと同じ愚かさなのだと思う。
この考えがある限り、悲しい出来事はきっと続いてしまうのではないか。毎日塾に集まる子供たちを見ながら、ときどき僕は、そんな思いに駆られることがある。

いまに始まったことではないが、塾のスリッパは頻繁に破かれている。去年はトイレの壁紙が少しずつ破かれたり、トイレの床一面に大量の水が撒かれるということが何度も起きた。
悪気がないのは分かる。ちょっとした出来心だということも。でもそのちょっとした出来心が、塾を一生の仕事であると思い込んでいる僕とその家族の心に与えるダメージの大きさを思うと、悲しい出来事が起きたとき、その対象となった子供たちの悲鳴をいつも思い浮かべてしまう。

子供たちは、いまその子の前に立ちはだかる壁を保護者がいつも払い除ける中で大きくなってきている。我が子に舞い降りる困難は保護者が払い除けなければならないという意識は、いま保護者の中で共通認識になった感がある。
様々な習い事であっても、指導者たちが子供たちを成長させるために壁を用意することを悪だと考える社会理念がきっとあるのだ。
その結果、この地域の子供たちは、中学入学後に避けきれない壁の高さに怯えだすことになる。

頑張って向かおうとする、いまとなってはごく少数の子供たちはやがてその壁を乗り越えていくのだろう。でもそれができない大多数の子供たちは、傷を舐め合うことに終始しまっているのかもしれない。その結果、自分で壁を乗り越えることを諦めた子供たちは小さな集団を作って徒党を組む。
時には壁を乗り越えようとする級友の邪魔をしでかそうとする集団が出てくるし、それを悪だと考える集団に属する子であっても、無意識のうちに悪意の無い嫌がらせに走ってしまうことがあるのだと思う。

問題が起きた時、悲しみをこらえられない人たちは、学校に責任を負わそうとする。でもそれで解決する問題ではないのではないか。
なぜなら原因を作り出していたのは、その被害者の周りにいた個人としては善意に満ちた純真な子供たちだから。
問題はそうした子供たちの割合なのだと思う。
その割合が高くなると、悲しい出来事を引き起こしてしまう可能性が一気に高まってしまう。この地域では、そこから抜け出すための高校入試なのかもしれない。

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