2025年4月8日火曜日

2025.3 いま公立入試の場で何が起きているのか? 追記

いま塾の中でこんなことが起きている。

計算ができない生徒が出てきているんだ。

 

例えば分数の計算ができないとか、小数の方がちょっと不安というのではない状態の、分数も小数も一応はできるのだけれど、掛け算と足し算引き算が同時に入っているような問題で、なぜだか足し算引き算の方を先にやってしまうとか、+(足し算)と書いてあるのに、なぜだか掛け算をしてしまうとか、これって計算間違いと言われれば、確かに計算間違いには違いないのだけれど、イメージとしては間違える癖が脳にしっかりと張り付いてしまっていて、なかなか剥がすことができない。

説明すれば理解してくれて、間違いがグッと減るのだけれど、もう翌日には前の癖が戻っていて、また間違いをしてしまう

ということは、いくら関数や図形ででてくる計算をして答えを出す種類の問題を理解してもらっても、結局方程式の計算ができないから正解にならない。ということはどんなに頑張っても、数学で決して4がつかない。数学の偏差値が50を超えないということが起こる。

 

深刻なのはこうした生徒たちの割合で、安行地区の2中学の場合、塾に来ている生徒たちに占める割合を考えると、一クラスに78人くらいはいるような気がする。だから彼らの中には、自分が計算が苦手とという意識を持ち合わせない子までいる。

思うに成績を上げるにはこの部分が苦手だからとか、分からないという感情が必要だと思うのだけれど、彼らにはその部分が不足しているように思えてならない。

きっと彼らの心の中には、この地域の中学生たちがよく口にする、もっとできない子がたくさんいる。という思いがあって、ここでもそんなに真剣になるようなことではない。そんな思いが、正しい知識を手にすることを拒んでいる部分があるのかもしれない。

 

いま塾は、強い対費用効果を突き付けられている。

とくにこの地域では、どうせ塾に通っても成績が上がらない。という気持ちが保護者の中に広がってきているように思う。

多くの中学生たちが正しい計算ができなくなっている状況は、数学の成績が上がるのにかかなり時間がかかることを意味する。まして剥がそうにも剥がれない、しつこく脳にこびり付いて離れないその癖は、土曜日曜に無料で補習を続けたとしても、そこに毎回出てきてくれることすら不確定な状況がある中で、どうやって数学の成績を上げればいいのだ?と言いたくもなる。

きっと暗記まじりで行う定期試験対策という塾にとっての逃げ道はあるのだろうけれど、そのやり方が生む大きなデメリットを考えてしまう僕には補習をやり続けることしかもう道は残っていないことに気づいて、補習をやり続けることになるのだろう。

 

もうこの地域の小学校の授業は、無理に学力を身につけない、身につけようとしない形で進んできている。

でもその問題を小学校の先生方は一切口にしていないから、児童も保護者も何の不安もない形で中学校に進学することになる。

その結果として、こうした事態が起こってしまっている。

2025年4月2日水曜日

2025.3 いま公立入試の場で何が起きているのか? ④教え方・学び方

思考力や発想力を別の言い方で言い表すとすれば、それは考える力なのだと思う。

 

思考力や発想力の厄介なところは、とても大きな個人差があること。それからその能力が現状としては、北辰テストや中学の実力試験の類ではそうした問題の出題が少ないために、あまり得点の差に出てはこないこと。

さらにはこれが一番厄介だと思うのは、おそらくこの地域以外の県内の生徒たちは思考力や発想力の問題をなんの苦もなく解いているような印象がある。

だから大手の塾のようにこの地域以外の場所で教室がいくつもあるような塾では、県入試の平均点が下がっていないことからもあまり大きな問題になっていないような気がする。

でもシローズはこの地域だけで指導している塾だから、この問題をとても大きな問題として感じる日々が続いている。

 

そうした中、塾はどういう指導をするべきなのか?

時代的に、褒めて・認めて・励ましてというやり方はどうしたも必要なのだと思う。ただ子どもたちの学習姿勢にこれだけの混乱状況の中で、褒めて認めることでさらに乱れが生じてしまうような気がして、僕の中には躊躇している部分がある。

そんな迷いがある中で、問題の授業の進め方なのだけれど、答えまでの過程を講師が伝え過ぎない授業が必要だと思っている。時間がかかったとしても、自分の力で問題を解かせる指導の先に思考力と発想力を身につけさせるヒントが隠れているような気がする。

ところが、これには難しさがある。

ヒントや知識の説明を加えたとしても、一人で答えまでに辿り着くには苦痛を伴う。そしてその苦痛は、学習経験の少ない子ほど大きなものになっていく。

コロナ禍以降、とくにこの地域では子どもたちは勉強をしなくなった。年々という言葉が必要なほど、毎年毎年子どもたちの家庭で行う学習時間は少なくなってきている。ということは、子どもたちの苦痛は毎年毎年大きなものになっているのかもしれない。

 

もしも僕にもう少し要領の良さがあったとしたら、こうした周囲の環境に合わないことをせずにもっと要領の良い方法を思いつくのかもしれない。

中学の定期テスト対策に力を入れ。そのためには予想問題まで作り、定期テスト前には繰り返し問題演習をしてもらう。そうすれば内申点が上がる。内申点が上がれば、低い入試得点で合格が可能になる。

あとは思考力と発想力の影響の少ない問題、数学なんかに時間を取らせずに理科と社会、それと英語に力を入れる。そうすれば合格の可能性はかなり高まるのだろう。

でもそれは入試のテクニックであって、子どもたちの未来に不安をともす。

どうしても高校入学後の成績に影を落とす部分が出てくるし、その後の就職試験や資格試験、大学入試にも影を落とす可能性を持つ。

 

思うのである。勉強をするとはどんなことなのか?

それをこの地域の小中学校が教えることができなくなっている現状がある中で、高校受験はそれを学ぶことができる最後のチャンスになっているのではないか。

ただこうした思いが、この地域と保護者と生徒たちにどこまで伝わるのか? 僕自身も分からなくなっている部分がある。

この地域の小中学校がもう勉強を学ぶ場ではなくなっている状況を伝えなくてはならないと思うのだけれど、それがどこまで伝わるのか? 自信らしきものがなくなってきている。

 

ある人は10年前、この地域の学校授業を末期だと言った。コロナ禍を挟んで、さらにひどい状況の中にこの地域の学校授業はある。

また近くの小学校の校長を務めたある人は20年前、このまま行ったらこの地域の学校は機能しなくなると執拗に僕に言葉を投げていた。

そうした中、教育ってなんなのだろうと考えることが多くなっている。

塾とはいえ、教育の場なんだから、受験のテクニックの方ばかりに、それと生徒たちの気持ちのケアーの方ばかりに気を使い過ぎている状況がやっぱり僕には気になってきている。

そんなことで、これから彼らは強く生きていけるのかな?

どこの高校に入るのかではなくて、高校入学後に自分の希望を通すために社会と隠していけるのかな?

そんな思いがやっぱり心の中で大きくなってきている。

 

ところで気になる子たちがいる。

以前からこうした子たちはいたのだけれど、県入試に思考力と発想力が完全に入り込んでしまうと、次に書くタイプの子どもたちは非常に不利な状況にある。それを最後に書かせていただく。

 

   小学校の時に、時間を競うように計算の類似問題ばかりを繰り返し解いていた子どもたち。

   例題や類似問題を見ながら、算数の問題を解いてきた子ども。

   勉強が分からなくなると、親や塾の先生に助けを求めることで答えを出すことを習慣にしている子どもたち。

 

いまそうした子たちは、県入試の数学にまったく対応できなくなっている。

塾でも対応策を考えているが、頭の深い部分に張り付いた習慣がそれをいっさい拒絶してきているるような気がして、まったく対応策が取れない状況にある。そしてそうした子たちの全受験生に閉める割合はこの地域では高く、増加傾向にあるような気がしている。