2013年9月3日火曜日

通知表の恐いはなし



 夏期講習会が終わろうとしています。

 トップは独走態勢、下位の子たちの努力で下位と中位の子たちの学力が僅差となってきた中1Sクラス。どうも歯車がずれていると、首を傾げたくなってしまう中2クラス…にも意外な生徒が頭角し始めている。中3生で言えば、自分のやる気(勉強時間)で成績は上がるということに、ここに来てやっと気づいた様子。そう努力をした生徒たちは、みんな夏休み前と夏休み後の自分の変化に気づいているはずです。
 私はと言えば、9月9日(月)から始まる2学期の授業のことで頭がいっぱいになっている状態です。そんな頭の状態で、最近プログを書いていないな。と思い…、反省をし、書き溜めていたブログの直しを始めた次第です。


 1学期の終業式が終わり、小学生の何人かの保護者の方からお子さんの通知表を見せていただきました。内容を見ると、まあさまざまではあるのてすが、一番に感じたのは、やはり成績を測る指標にはなっていないとの思いでした。例えば同じ学年の生徒で、明らかに学力の異なる2人の生徒がいたとして、その2人の生徒の学力の違いが、小学校の通知表の評定からは推し量ることはできない。やはりそれは事実であると思います。
 ただ、通知表には素晴らしい部分があって、いま現在の状況で子どもたちが、「立派な大人になるとしたときに、どの時点にいるのか?」。それを見ることができるのではないかと思います。「もう少し」よりも「できている」さらには「よくできている」が多い子の方が、立派な大人に近づいている。そういう見方ができるのではないかと思うのです。
 このことは、実は夏期講習会中に小学生の生徒たちに話しました。彼らはテストでは良い点数を取り学期の終わりに渡される通知表の評定も出来るだけ良いものにして、誰もが家庭で褒めてもらいたいという気持ちを持っていると思います。でも、ではなぜ通知表の評定を良くしなければならないか?という理由に気づいていなかったのだと思います。私が、通知表で「よくできている」を取ることは、とっても素晴らしいことだと思うよ。「もう少し」がほとんどなくて、「よくできている」がとっても多いというのは、今の時点で立派な大人になれる可能性がとっても高いということだと思う…。だからみんな、立派な大人になりたいと思うのなら、「よくできている」を取ろうよ。どうしたら取れるかって、それはみんなが考えることだと思う。夏期講習会のときに、私がそういった話をすると、目の前に座る小学3年生から5年生の生徒たちは、意外にも実に真剣に彼らは聞いてくれていました。
 授業(問題)の説明も含めて、私がこのクラスの生徒たちに真剣に話をしようとする時、私の真剣さが強ければ強いほど、私の期待値よりも、聞く側である彼らの真剣さは残念なことに必ず低くなってしまう…というのが、実情であると思います。でもこの日ばかりは違いました。全員がということは言えないかもしれませんが、かつてないくらいの真剣さで、私の言葉を胸にしまってくれていたように感じました。たぶん彼らにとっても、通知表の評定の真意…というものに気づかぬうちに疑問を持っていたのではないかと思うのです。ご両親を含め、家族や親戚の方達まで、通知表の評定に注目している。でも実際にそれを取る側の子どもたちには、各教科のテストの点数に合致しているとは言い難い現在の通知表の評定に、どうすれば「よくできている」がつくのだろう? あるいは「よくできている」がたくさんついたとして、それが何になるの?的な疑問があったのではないかと思うのです。
 「よくできている」が多いと、立派な大人になれる…という、私が口にした言葉は、たぶん今の小学校・中学校の先生方には、使いづらい言葉ではないかと思います。生徒たちに伝えたいという気持ちになったとしても、じゃあ「よくできている」が少ない子は立派な大人になれないの? それを連想させてしまう言葉である以上、35人もの子どもたちを前にしては、なかなか言い出しにくい言葉ではないかと思うのです。
 それを私が口にしてしまった。決して私が凄いことをしたのではなく、わずか5人の生徒、しかも彼らの成績や性格を、また私という人間のこともよく知っている間がらからこそ、言えた言葉なのだと思います。それがたぶん生徒たちには、先生と呼ばれる人の言葉として、とても新鮮な言葉に映ったのではないでしょうか。だから彼らも、普段よりも真剣に私の話を聞けた。ということなのだと思います。

 さて、本題です。
 ときどき、こんな生徒がシローズに来てくれます。
 中学の成績は「上」です。定期テストの学年順位がたいてい20番ぐらい、そして通知表の評定は40前後です。通知表が良いわけですから、前述の話のように、彼は立派な大人になるべき道を順調に歩いているように思います。もちろん彼は、こうした生徒たちがそうであるように、大いにスポーツマンでもあります。そしてこれもキーポイントなのかもしれませんが、彼は小学校から安行・新郷地区の小学校に通っています。
 そんな彼が中3生になって、シローズに来てくれました。志望校は偏差値が60以上の高校です。何としても、合格してもらいたい。彼の人柄を見れば、たいていの塾の先生たちはそう思うはずです。私もそう思いましたし、他のシローズの先生たちもその気持ちになっていました。ところが上がらないのです。偏差値が、入塾以来全く動かない。
 彼を見ていると、こんなことに気づきます。彼は勉強の仕方を変えていない。たいていの生徒たちは、入塾以降、勉強の仕方を変えてくれます。それまでの定期テストで点数を取る勉強の仕方から、模擬試験、さらには入試で点数を取る勉強の仕方に気づかぬうちにも変わって行きます。でもなぜか、彼は勉強の仕方を変えていない。変えていないというよりも、変えることが出来なくなっているのかもしれない。彼を見ていると、そんな気になります。
 たぶん彼には、小学生の頃から先生方に評価されてきた勉強の仕方がしっかり過ぎるほど根付いているのだと思います。でもそれは、小学校と中学校で評価される勉強の仕方でしかなかった。決して高校入試で点数が取れる勉強の仕方ではなかったのです。
 いま小学校の授業は、年々幼稚園的な要素を取り入れたものとなっているように思います。落ちこぼれの子どもたちを無くそう。誰もが参加できる授業にしよう。そういった小学校の先生方の努力の弊害が、彼のような生徒を生み出している。そしてその傾向が年々強まっているといえるかもしれません。
 この先、彼がどうなっていくのか? もちろん成績は上がっていくはずです。というよりも、私が彼と向き合いながら彼の成績を上げていくのです。




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