2025年8月21日木曜日

安行中 my Love 2025.8「偏差値」

安行中my Love というタイトルをつけたのですが、たぶんこの話は戸塚の中学でも言えることだと思っていますし、鳩ヶ谷中も神根中も新郷の東中も、もちろんもう一つの安行の中学である安行東中でも言えると思っています。

 

ただ割合は違うかもしれません。

安行中では9割を超えているように思うんですけど、他の中学ではもう少し少ない割合になると思っています。

 

 

偏差値を取り巻く事情

 

僕が塾を始めた30数年前、今よりも定期試験の学年順位と偏差値の高低は一致していたとように思います。それが少しずつ崩れてきて、たぶん10年ほと前からはかなり定期試験の成績と偏差値の食い違いは広がってきている。

定期試験で90点以上の得点を取った生徒の偏差値が60を大きく下回るようなことがわりと頻繁に起きているような気がします。

だから定期試験の成績の方にどうしても保護者の方や生徒たちの目が行きがちな状況がやっぱり続いているんですけど、そういった話を耳にする度に首を傾げたくなる自分がいます。

 

こんな子がいました。もうその子は30歳くらいになっているはずですから書かせていただくのですが、その子は中学に入学してから、この地区ではわりと名前が知られている塾に通い、その塾の指導もあって、常に学年順位で中学の中で5番くらいに入っていた。

その子は中3になって、他の子たちと同様に北辰テストを受け出した。ところが偏差値が上がらない。

50台半ばの偏差値で、本人もお母さんも期待して高校受験とは違うことになりそうな状況で僕の塾に来てくれた。

 

授業をしてみると、偏差値が上がらない原因はすぐに分かった。

英語は文法の知識ゼロに等しいし、数学は解き方の暗記がベースになっているために、少しでも基本問題から外れると解けない状況があった。

その後少しずつ偏差値を上げて、その子は60を少し超える高校に進学した。

 

そういうことって、いまもわりと頻繁に起きていることだと思う。

塾に通う。塾は定期試験の成績を上げることを第一目標に指導をする。

その結果確かに中学の成績は上がるのだけれど、それによって保護者の方も子どもたちも大きな安心感を得るだろうし、きっと通っている塾の良い評判を母娘で周囲に伝えるだろうけれど、そうした指導では高校受験の場で何点取れるかの指標である偏差値を上げることはできない。

 

塾側の方も例えば数学の指導で、生徒が分からない問題の解き方を説明する。その次にはその問題の類似問題を解いてもらう。それで理解をしてもらうという手法は、生徒である子供たちに負担をかけないはずだから、指導しやすい形なのだと思う。個別指導の塾ではそうした指導が一般化しているようである。

でもそうした指導は、この地域の中学生には大きな危険を孕む。

中3の二学期以降に数学の偏差値が大きく下がる傾向が見られているから。

 

偏差値が下がらない指導とは、もっと生徒たちにも負担をかける指導が必要になる。解き方の説明ではなくて、なぜそういった解き方をしなければならないのか?の理解が必要となるからだ。

 

でもそうした指導を行なっている塾は本当に少なくなった。

いまほとんどの塾は解き方の説明から始まって、類似問題の演習で理解を深める手法をとっているはずである。

他の地域ならいいのかもしれない。でもこの地域でそれを行うと、その指導のせいで、やがて偏差値を下がることになる。

 

 

偏差値が下がる

 

近くの中学ではたぶん9割以上の生徒が、中3の2学期以降に偏差値を下げる。

近くの中学ほどでなくても、戸塚、神根、鳩ヶ谷、新郷にある中学でもかなりの確率でこの時期に受験生たちは偏差値を下げることになるのだろう。

一番下がるのが数学で、その次が英語。国語や理科や社会は若干上がる生徒も出てくるが、たいていの場合数学と英語の落ち込みが大きいために、全体として偏差値は次第に、時には急激に下降していくことになる。

たぶん2から5くらいの偏差値の落ち込みはもう常識内で、中には10近く偏差値を下げる子たちが出てくる。

県内の学力レベルの高い地域の生徒たちが猛烈に受験勉強をする中で、小学校からの学力レベルの低い学校での授業が仇となって、次第に下がっていくという状況である。

 

ただ下がらない生徒も出てくる。結果として、その子たちが浦和西や蕨、浦和市立や一女や浦和に入るわけなのだけれど、どんな子が入れるのかと言えば知能指数が高い、いわゆる頭の良い子に限られているのが現状である。

でも普通程度の知能指数の持ち主であっても、本人の努力と塾の教え方でそういった高校に合格できる子がいる。僕はそれを目指して塾を続けてきた部分があるのだけれど、その努力ができる子がここ5年間でとても少なくなった。

僕はそのことを痛感しながら、時の流れの大きさを感じながら塾を続けている。

 

塾は授業料を払ってくれる保護者の皆さんの満足感を常に気にしながら、運営を続けなければならない。

それなのにこの地域では、受験が近づくにつれて偏差値が下がりだす。塾に通わせたのに成績が上がらないどころか下がってきたじゃないか? それに似た言葉を僕も言われたことがある。

もうそれを言われてしまうと、返す言葉が見つからなくなる。

小学校の授業がとか、中学の授業と入試問題の違いとか、コロナ禍以降とくにアクティブラーニングが導入されて以降のことなどいくつかの言葉が浮かんできたけれど、そんなことを口にするわけにもいかなくて、ただ黙り込むことしかできなかった。

そうならないためにも 僕はいつも塾の教室を開放し、生徒たちに出来るだけ机に向かってもらおうとしている。

 

 

北辰対策は必要なのか?

 

2年前、11月の北辰テストの結果が戻ってきた頃だったと思う。

二人の生徒が、元気を無くしているように僕には見えた。明らかに彼らの様子は普段の姿とは違っていた。

話を聞いてみると、自分の偏差値に比べて同級生たちの偏差値が高く出ていることで不安を感じているというのだった。

 

もちろん僕も彼らの北辰の偏差値は知っていた。知っていたけれど、今回の偏差値からどのように合格点まで持っていくのか?ということを考えていたし、僕にはそれほど彼らの偏差値を悲観する気持ちはなかった。

むしろこれから公立の受験日まで、どうやって彼らのペースを上げていくのか?ということに気持ちは移っていたように思う。

でも彼らは同級生たちとの偏差値の対比で悩んでいたようだった。

誰々は偏差値を大きく上げたのに、自分は全く上がっていないとか。そうしたことで悩みを抱えていたようである。

 

僕は彼らに言った。

結局偏差値を上げた子って、通っている塾が北辰対策をしている子なんじゃないの?

彼らが頷いた。

 

僕の塾は北辰対策の類をまったく行なっていない。

以前少しの期間行なったこともあるけれど、それが一時的な偏差値を上げる力しかないことをあらためて知った。

それと公立私立の入試問題と北辰テスト等の模擬試験問題の間に内容的な隔たりがあって、例えば北辰テストの偏差値が即入試当日の得点に現れるという状況でなくなったこともやはり大きいと思っている。

では何のために北辰テストがあるかと言えば、毎回出てくる偏差値を見て、自分の足りない学習内容を確認するためにあるように思っています。

もういまの入試問題のスタイルだと、毎回の北辰テストのA評価B評価なるものなど、何の価値もないのでは…とすら思うことがあります。

 

時代の流れは、塾が北辰対策をすることが当たり前になってきていて、北辰対策を行なっているのかどうかということが、塾選びにも影響しているようにも思いますが、何だかそこに踏み込めないでいる自分がいます。

何よりも毎月の授業料や講習代の他に、一時的な成績アップしか期待できない北辰対策の費用をいただくということが、やっぱり僕には踏み込めない一線になっています。

結局北辰対策は、保護者と生徒にとっては精神安定剤で、塾にとっては授業料以外の収入源になっているというのが実情だろうし、また別の面では指導の欠点を我が子を託している保護者から隠すために必要な面もあるのかもしれない。

僕は前に座る二人の中3生にそんな話をしていた。

 

もしも過去2年分の11月の北辰テストをみんなに解かせて、丁寧に解説したとしたら、偏差値上がると思わない?

彼らが二人とも頷いていました。

だからさあ、北辰対策を受けた生徒の偏差値が上がったとしても気にすることないよ。

 

このとき僕の話を聞いていた二人の生徒は、一人が市立川口に、もう一人は蕨に合格した。

彼らが嫉妬していた同級生たちは公立が不合格になったり、彼らよりも低い高校に合格したらしい。

 

こうした状況は、実はときどき起こっている。

近くの中学で入試結果がすべて出揃ったとき、上位校の合格者の半分以上がうちの塾だった。そうしたことは、これまでに何度もあった。

 

 

偏差値を上げるためには

 

偏差値を上げるためには、中学の授業とは違う内容の学習が必要になっている。

入試の問題とこの地域の中学授業の内容がかけ離れてきているというのがこの原因だと思う。

やっぱりそのためには塾の勉強が必要で、ただ塾に入塾する時期がこの地域では遅くなってきているし、とくに近くの中学では塾に通わないで高校受験を迎える子たちが増えているという話も耳にしている。

それとこの地域ではとくに中学校の学年順位の方に目が行きがちであることも、偏差値の上昇を食い止めている面があるのだう。

 

塾を長くやっていると、生徒なりの偏差値の上げ方のようなものが見えてくる。

僕の言う通りの勉強をしてくれれば、偏差値は上がる。そんな自信さえ思えてくることもあるのだけれど、やはりそのために生徒の学習量がどうしても必要となる。

 

今年、僕の塾は10何年かぶりに浦和西以上の高校の合格者がゼロになった。その上不合格者は例年以上に出てしまった。

すべての結果が出たとき、心の中で勉強時間が足りなかったんだよな。という言葉が浮かんだ。

やっていると彼らは言うかもしれないけれど、時間が少なかった。それに集中していたかと言えば、何をするかよりもその場にいることの方に気持ちがいっているような子までいた。

 

その学年によって、生徒たちの姿は異なる。

今年の生徒たちは全体として、勉強モードになりにくい生徒たちだったのかもしれない。

今年はどうか? まだ分からない。僕は今年も生徒たちが机に向かってくれるようにあの手この手を差し出そうとしている。

2025年7月16日水曜日

大勢に反しても 2025.7

個別指導って

 

僕の塾でも個別指導を行なっています。ついこの間もずうっと集団授業を受けていた生徒に個別指導を勧めたりもしていました。

それにこの地域ではいまは、やっぱり個別指導の方に興味を持つ保護者の方が大勢いらっしゃるように思います。

 

ただそうした個別指導を求める方向って、本当に正しいのかな?

あるいはかえって、子供たちの可能性を小さくする方向にいってしまうのではないか?という気持ちがあって、大きなニーズに逆行するということは、なんだか怖い部分があるんですけど、やっぱりもう書かせていただくべきなのかな。という気持ちも同時にあって、キーボードに向かっている状況です。

 

いまの入試で求められているのは、考える力だと思います。

公立の方では数学がとくにそうですし、私立はというと数学よりも英語や国語の方がこの傾向があるような気がしています。

でもこれには問題があります。この地域の小学校中学校の授業が、考えることと逆方向にいっている部分がある。

 

たとえば算数と数学の学校授業って、先生が解き方を教えて、生徒たちは計算をして答えを出すというやり方をしていると思います。

このやり方は授業としては成立するのだけれど、学力になっているか?というと、たぶん身になっていない。むしろ教えてもらってから解くという習慣が出来てしまうために、受験が近づいてきたときになかなか偏差値が上がらなくなるというハンディがつきまとうことになる。

だから高校受験が近づいたとき、この地域の中学に通う人たちは誰もが学習の仕方の変更を余儀なくされる状況があるのだと思います。

教えてもらって解くという学習の仕方から、考えて・調べてからから解くという勉強の仕方に変えていく必要があるのだと思います。

 

個別指導のメリットは、分からないことをなんでも聞けるということだと思うのだけれど、そのメリットが考えて・調べてから解くという受験に必要な学習の仕方へのシフトを邪魔してしまうことだってきっとある。

 

毎年ではないけれど、僕の塾には他塾で個別指導を受けていた生徒が移ってきてくれることがあります。たいていは数学が分からなくなった。あるいは数学の偏差値が上がらない。ということで来てくれくれてているように思うのですが、その子たちに共通しているのは、考える前に説明を受けてしまっているために考える力が身についていないことが原因であるようです。

 

個別指導には難しさがある。

分からないことをなんでも聞けるという環境が、いま受験でも社会でも求められている考える力を身につけるという流れに反する部分が大きいですし、何よりも生徒のペースで進めてしまうということが成績を上げる、さらには合格するということと違うベクトルに向かってしまう危険を孕んでいます。

 

ただ、個別指導については思うこともある。

もしも勉強をあまりしていなかった子がいたとして、高校受験が近づいて急遽勉強しなくちゃならなくなって塾に通おうとしたときに、初めの数ヶ月だけ個別指導を受けるという選択は理にかなっていると言えるかもしれません。

勉強するということはどういうことなのか?ということをマンツーマンで教えてもらう。その上で学習の仕方を身につけてから集団授業に入る。それが理想的な指導とも言えるのではないでしょぅか。

 

 

 

英語と数学<理科と社会 の流れって

 

僕の塾では中2から希望する生徒に理科と社会の指導をしていますが、どちらかと言えば、というよりもかなり英語と数学の指導を重視している塾なのだと思います。

これには訳があって、公立の県入試がこの地域の中学授業のレベルとは違うレベルになってきている。そしてこの地域の受験生とこの地域外の地域の受験生の間に平均点の大きな開きが生まれているということがあります。

ということは、高校入学後についていけない生徒が出てきてしまう。ということはその後の大学入試にも、それからこれが一番気になってくるのですが、就職試験や資格試験に対応できなくなってしまうのではないか?との思いがあるからです。

もう少し中学の学力水準が上がったとすれば、そこまで考える必要はないのかもしれませんが、やはり高校合格と同じくらい、その後の生徒たちの状況を思うと、やはり英語と数学をもっと勉強をしてもらわないと。との思いに辿り着いています。

でもいま他塾さんの状況を見ると、大勢はもう完全に英語と数学から理科と社会の方に移ってしまっているようですね。大手の塾さんのカリキュラムはそうなっていますし、それに続くようにいろいろな塾がその方向に移ってきている。

この授業の進め方は確かに受験の合格率を上げることに繋がると思います。

そのことに僕などは、問題意識を感じてしまいます。

 

理科と社会も学力だろう。という声が届いてくるのかもしれませんが、英語と数学と理科と社会は違う種類の教科である思います。

理科と社会が比較的短期間で成績を上げることができるのに対して、英語と数学は成績を上げるのに非常に時間がかかる。そして英語と数学の場合は、高校入学時の学力がその後もかなり影響してくるという現実がある。

そうするとやっぱり、英語と数学と理科と社会を同等に評価して良いのか?との思いに繋がってくる訳です。

高校入学後に学力の問題として浮かび上がってくるのは、たいていの場合は数学だし、英語というのが一般的であることもこの思いを強くしています。

 

他の地域ならいいようにも思うのです。

例えばさいたま市や戸田公園駅の近く、それから東武東上線の沿線とその近くの中学の平均偏差値が60付近を越える地域の中学生たちには、もしかしたら有効な手段とも言えるかもしれない。

でも内申に2が一つか二つの生徒が500点満点の公立入試で150点ほど取れば合格できる高校に生徒の半分弱が入れないというこの地域でそれをしてしまったら、子供たちはいつ一般的な学力と言われるものを上げるのだろうとの思いが持ち上がってくる訳です。

 

この地域の子供たちにとっての高校受験は、志望する高校に入るという目的以外に、他の地域の子供たちの学力、いや教養という言葉の方が適切なのかもしれません。それに近づけるという目的があるとの思いがあります。

ここでそのレベルに達っしておかないと、これからいろんな壁に出会ってしまいそうな、そんな思いがしてきます。

 

成績の良い子はまだいいのかもしれません。現状として、他の地域の子供たちと対等に意見を戦わせる力を持っているでしょうから。

でも近くの中学に通うごく平均的な学力の子たちに丁寧な定期試験対策を繰り返し、北辰テストの前には北辰対策までする。そして受験が近づけば、今度は受験のテクニックに沿った指導をされてしまったとしたら、彼らの成長はどうなるのだろうか? 高校入学後もずうっと塾に通わなければならない。僕はそうしたことに大きな怖さを感じています。

 

 

 

大勢に反しても

 

いまこの地域の子供たちは小学校の高学年まで、場合によっては中学生になってまでもある習い事をしているケースがある。

この習い事を経験した子たちは、みんな数学を得意科目だと言う。

まあ確かに他の教科よりも数学の得点が高かったりするのだけれど、どんなに勉強をしてもある時期から数学が分からなくなる。偏差値も上がらなくなって、たいていの場合50程度で止まってしまうのだ。

一緒に勉強している子たちの数学の偏差値が55を超えても、その子たちだけ、受験が近づくにつれて数学が急に苦手科目に変わってしまう。

その状況は高校に入ってからも同じで、おそらくもう数学は苦手科目になってしまうのだろう。僕は塾を始めてから、そうした例を嫌というほど見てきた。

 

塾生たちの教科別の偏差値を見たとき、一番数学の偏差値が高い傾向がある僕の塾であっても、小6までこの習い事を続けてきていた生徒で数学の偏差値が60を超えた生徒がいないということからも、この習い事がこの地域の子供たちの高校受験に影響を及ぼしているのでは?と考えたくもなります。

 

どんな集団であっても、人は大勢から多くの影響を受ける。

他の地域では小学校の高学年になると、通塾者がかなり減ると言われるこの習い事がこの地域ではもてはやされていることも大勢の影響を受けてのことなのだと思う。

 

個別指導が高い人気を保っていることも、大手の塾が学力の高い地域のカリキュラムをそのまま持ち込んで、それがこの地域でも一般的な指導になってしまっていることに対して、保護者たちが何の不安も感じなくなってきていることも大勢の影響と言えることなのかもしれない。

 

塾に通わないで、高校受験を迎える。

公立入試のレベルがこの地域の中学校の授業とかけ離れている状況を思うと、その穴埋めをどこでするのか?それが塾なのだと思うのだけれど、いま塾の近くの中学の生徒たちを中心に急に塾離れが進んできている。

 

どこでもいいから公立高校に入りたい。私立無償化があるのだから、公立じゃなくても、だったら塾はいらないじゃないか?

そんな声がこのエリアで急に広まり出しているような気がする。

そこにもきっと大勢という言葉が影響しているのだと思う。

 

この地区に生きる人たちの声である大勢を無視することなどできないけれど、いまこの地域で広まってきてしまった大勢は、確実にこれからを生きる子供たちの未来に影を落とそうとしている。僕はそのことに恐怖に近い感覚を覚えているのです。

2025年6月7日土曜日

安行中 my Love 2025.5のいま④「変化・不安」

「変化」

 

一年くらい前まで、僕は塾で日々生徒に向き合うときに、なんで勉強しないんだという気持ちをいつも持っていたような気がする。

いつらかというと、たぶん56年前から。急に変わっていく中学生たちの姿を前に立ち往生していた自分がいた。

きっとこの頃から、小学校の先生方の子どもたちへの接し方が変わったのだと思う。おそらくこの頃から、なんらかの配慮のようなものが先生方に出てきたのではなかったか。

 

子供たちは、それ以前とずいぶんと変わったように思う。

一言で言えば、勉強をするという作業が急に疎かになってきたような印象がある。

それが確かコロナ禍がちょうど始まる頃だった。

 

コロナ禍の前と後で、中学生たちは、もちろん小学生たちも変わった。

真面目に勉強をするという意識が明らかに後退して、そこに中学のアクティブラーニングの導入があった。

中学生たちは、真面目に一生懸命とは逆の方向にベクトルを動かした。

そしていまの現状がある。

 

いま子供たちは、分からない。と、少しも悪びれずに言う。

考えたけど分からなかった。ではなく、パッと問題を見て、分からなければもう問題を見ようとしない。それがこの地域の子供たちの普通の姿になった。

今年の中3生たちもそうした姿を持った子たちだと思うけれど、中2生たちからはさらにその状況が進んできているように思う。

 

そしていま教室で生徒に向き合う時に、なんで勉強しないんだという気持ちはない。

コロナ禍とやや前後しながら同時に進んできたアクティブラーニングの導入が、僕に気持ちの変化を起こしたのだろう。

いま僕は、どうしたら勉強をしてくれるか?ということに一点集中して、生徒たちに向き合っている。

 

僕の気持ちの変化が起きると、状況は一気に進むものなのかもしれない。

週末に行っている補習の影響もあって、以前よりも生徒たちの成績は上昇に変わってきている。

ただ、僕はどこか寂しい目をして生徒たちに向き合っているところがある。

 

コロナ禍が始まる前まで、学校帰りに塾に寄って勉強する生徒たちがいた。

僕はその子たちのために、10年くらいの間おむすびを用意していたことがあった。

初めは母が作ってくれていたし、母が疲れたと言い出してからは、奥さんと僕で用意していた。

あの頃はいまよりも生徒が大勢いたから、それができたのだと思うのだけれど、なぜ毎日おむすびが必要だったかといえば、中3生の三分の一くらいの生徒が学校帰りに、あるいは家に帰ってすぐ塾による生徒がいたからだった。

なぜ彼らが毎日塾に寄るかと言えば、授業をしている塾の教室の後ろの席に座り勉強をしていたからだった。

 

いつからだろうか? その日に授業がない生徒まで塾に来て勉強をするようになったのは、たぶん塾を始めて56年が経って、元生徒たちが講師をしてくれるようになってからだったと思う。

はじめは保護者の方がお弁当を届けてくれていた時もあった。そのうちいろいろと問題が出てきた。

フルタイムで働いているお母さんがいたりして、塾で勉強の合間に食べる夕食を用意できない子が出てきた。そうした子の中には、夕食の時間になるとコンビニに行って食事を取る子がいたりした。

その様子を見た僕は母と相談をして、おむすびを出すことにした。

それが始まりだったと思う。結局コロナ禍まで10年とちょっとの間、僕の塾は生徒たちに夕飯用のおむすびを出す塾になった。

 

中3生の3分の1から半数くらいの生徒が学校帰りに塾に寄り、塾が終わる10時まで塾で勉強をする。授業がない日も中3生たちはそれを繰り返す。

それが部活が終わる6月7月頃から始まるのが、僕の塾の風物詩になっていた感があった。

効果はてきめんだった。偏差値40の生徒は年末くらいには50近くなる。50の生徒は55を超えた。それは全員ではなかったかもしれないけれど、かなりの確率で生徒たちは成績を上げたと思う。

 

僕が続けている塾は大きな看板の塾ではないから、生まれつき頭の良い子というのはあまり来ない。来てくれることはあるけれど、そんなには多くはないと思う。どうしたって、生まれつき頭の良い子は大きな塾に行く。

 

塾にときどき入ってきてくれる頭の良い子はいいんです。

どこの塾に通ったとしても、ある程度の期間まじめに勉強をしてくれれば浦和にも一女にも入れる。

でもこの地域によくいるタイプの小学生のときにあまり勉強をしてこなかった子たちはそうはいかないと思う。

でも中2の二学期から勉強を始めたとすれば、蕨や浦和西は間に合う。

もちろん中1の早い時期から、英語と数学の基礎固めと処理能力を高めるためのトレーニングは必要となる。

 

僕が思うのは、公立入試問題がどんどんと思考力発想力の方向に変わって行き、初めは数学だけだったのに、いまでは5教科に渡ってただ知識を問われるのではなく、考えて答えることが要求されている。

でもこの地域の子供たちはそのトレーニングを小学校で受けてはいないから、受験までにその部分のトレーニングをする必要がある。

2の二学期以降の猛烈な勉強はそのためのトレーニングなのだと思う。

 

いま、そうした猛烈な勉強をしてきた中3生が塾にはいないし、去年もいなかった。

一昨年は二人いた。でもそのほかの生徒たちはさすがに部活が終わってからは勉強をしていたけれど、やはりそれ以前の勉強が不足していたから、大幅に成績を上げることができなかった。だから蕨や浦和西には届かなかった生徒がいた。

 

いま何が変わったのかと言えば、学力よりも子供たちが勉強をする意思なのではないか?と思うことがある。

そして保護者の方たちも、我が子に勉強しなさい。という言葉を使わなくなった。

 

コロナ禍とアクティブラーニング、この5年の間に子供たちは大きく変わった。

これからも近くの中学では、浦和や一女や蕨等への合格者が出るのだと思う。

でもそれはごく一部の知能指数の高い子に限られたことで、普通付近の知能指数の子は、この5年で合格する高校のレベルを大きく下げた。

 

 

「不安」

 

小学生時の習い事で気になることがある。

 

受験時に偏差値を上げようとした時、それを邪魔してしまうことがある。

そしていまもその習い事を続けている小学生は後を絶たない。もしかすると、増加しているのではないか?と思えることさえある。

 

一つは学習の習い事である。

この習い事、昔からある習い事であるが、この習い事を低学年から始めて高学年まで続けてしまった子たちは、なぜか数学の偏差値の上昇を止める力があるようだ。

たぶんあまり頭を使わずに習慣的に問題演習を繰り返してしまうことが、いまの考えなければ答えが出ない入試問題に合わなくなっていることが原因であるような気がする。

この地域の小学校授業が思考力発想力の領域に入っていない現状と、この習い事の特性のようなものが合致して、学力の上昇を止めてしまっているような気がしている。

 

実は毎年、中3生で成績が上がらない生徒が出てくる。

一生懸命勉強している。授業態度も悪くない。ただどこか、集中できていないような生徒が出てくる。

なんでだろうと思って、いろいろ聞いていると、小学校の低学年から56年生までこの習い事をしていたということはよくあることになってしまっている。

 

もう一つが、スポーツの習いごとである。クラブチームと言えば良いのだろうか?

サッカーが有名だし、野球や卓球、バレーやバスケなどもあるのだろう。

最近この種の習い事を中学生になってからも続ける子が増えてきているような気がする。

子供たちがスポーツをすることの素晴らしさは知っているつもりだけれど、クラブチームに属する子たちの高校受験の状況が気になっている。

 

はっきり言おう。

前述の習い事を小学校の低学年から高学年まで続けた生徒で、数学の偏差値が60を超えた子を僕の塾ではこれまでに出ていないし、スポーツのクラブチームを中3の二学期まで続けた子で、僕は偏差値60以上の高校に合格した例はない。たいていの場合は、偏差値50を超えないレベルの高校に進学することになっている。

どちらの習い事にしても、そのすべてを否定するつもりなど毛頭ないが、この地域ではあらかじめそうした高校受験の結果を覚悟する必要があるように思っている。

2025年5月19日月曜日

安行中 my Love 2025.5のいま③「番外?数学」

本当は、今回の投稿のまとめを書くつもりだったのです。

だいたい内容は頭に中にありまして、エネルギーが溜まってきたら書くつもりでいました。

 

ただ、いま中間テストの時期ですよね。ですから塾でもほとんどのクラスが塾のテキストを進める通常授業を止めて、テスト勉強の指導をしています。

僕が教える数学もそうで、やっぱり定期テストの前は中学のワークの指導になるわけです。

 

ちょっと補足しますと、生徒の中にはこのワークの指導が必要ない子たちもいます。彼らは勝手にワークを解いて、勝手に丸つけをしてくれます。

普段の塾の授業で、ワークよりも難しいテキストをどんどんという感じで解いていますから、ワークの問題はそれほど負担なく解いているようです。

たぶんその子たちが選択問題の学校を受験することになるのだと思います。

ただ、そうした子たちの割合がずいぶんと少なくなりました。

ああ、中学の授業のレベルが下がってきているな。僕が、そう感じるのはそんな時です。

 

それでワークを解いている生徒たちの状況なのですが、前半の計算問題でも間違いが目立ちますし、後半の利用の問題になるとほとんどの子が解けていないようです。

中学の授業ではやったということなのですが、理解の領域までは達していない。

ちょっと異常なくらい授業の内容を理解していない生徒が多くいることに驚かされます。

もうほとんどの子がこの単元の内容を理解をしていない。

いま市内の中学で行われている、先生方が大きく成果を期待して導入されたはずのアクティブラーニングですけれども、この地域の中学では機能しているとは言えないのかもしれません。もっと言えば、教師が提供した課題に対して、生徒たちが討論をし答えを見つけるというアクティブラーニングのメリットがまったく出ていないで、討論の場が雑談の場になってしまっているのかもしれません。

 

確かにアクティブラーニングが導入されてから、中学生たちの学力はどんどん下がってきているように思います。

コロナ禍の学校休校もありましたけれども、それよりもアクティブラーニング導入以降の学力の低下の方が大きいように思います。

毎日塾で授業をしている僕には、その導入以降の学力低下がひたひたと日々の実感として感じられました。

とくに塾の近くの中学校は、他校よりも一年早くアクティブラーニングが導入されました。

 

授業が雑談や休憩の場になっているのが現状のようです。

 

近くの中学校は、市内の他の中学に比べて一年早くアクティブラーニングが導入されました。当時の校長先生が、自分の出身校であるその中学で新しい授業の試みとして、アクティブラーニングを導入したという話を聞いたことがあります。

これによって、学力が向上すると期待していた面があったのだと思います。

ところがそれが叶わなかった。叶わないどころか、更なる下降の方向に完全に進み始めている。

そうなってくると、数学という教科はもう暗記の領域になってしまうんですね。ワークの解答を見ながら、ワークを解いている人は大勢いると思いますが、その勉強の仕方って、入試直前に大きく偏差値を下げる原因になりますし、1日2日しか頭に知識が残らないということになると思います。

わずか1日2日しか頭に残らない奇妙な暗記の連続が勉強になってしまっている子は、本当にこの地域には多くいると思います。もうそれが普通の勉強になってしまっている感すらあります。

 

入試の数学って、暗記とは逆の方向にいっていると思うのです。

考えないと答えが出せない。以前に解いた問題がこうだったから、これもこうすれば解ける。そういった記憶の部分で解こうとすると、解けない問題が急に増えてきているようにも思うのです。

たぶんこれが思考力発想力の問題だと思うのですが、他の地域は小学校の算数の授業で、この部分のトレーニングができてきているように思うのです。

でも、この地域は小学校の算数授業も考えさせるというよりは覚える部分が主になってしまっている。

そうすると、高校受験を考えた時に必要な思考力発想力の部分の習得を中学授業でする必要が出てくる。

でも、それが中学校授業で出来ていない。そこで救世主となると期待していたアクティブラーニングは、救世主とは真逆の成果しか出なくなってしまった。

塾はそれを補うためにあるのだと思うのだけれど、これがなかなか大変な状況で、思考力発想力まで進まない状況があります。

 

そんなとき、塾が取るべき道は二つあると思います。

一つは数学を捨ててしまうこと。入試でどうせ平均点が低い教科なんですから、数学の指導は最小限にして、他の教科で必要な得点を取ろうとする。

公立入試には理科と社会がありますから、このやり方は一見有効なようにも思うのです。

でもこうして高校に入学した生徒たちは、数学の授業か分からなくなると思います。

いま数学が分からないと言って、来てくれている高校生が何人かいます。

彼らはもしかしたら、こうした塾の指導の犠牲者なのかもしれません。

 

塾が数学を捨てるという指導をしないのであれば、もう一つの道を選ぶ必要があります。

僕が選んだのは、土曜日曜に無料で補習を行うというやり方です。成果はジリジリという感じで、少しずつ出てきていると思います。

 

思うんです。諦めてはいけないと。僕は少しも彼らの数学の成績を上げることを諦めてはいません。

2025年5月7日水曜日

安行中 my Love 2025.5のいま②「姿勢」

なんで、こんなに変わってしまったのだろう

もうここのところ、僕の心にはそんな思いがある。

 

少し前に、授業中に鼻歌を歌っている生徒がいた。

その子の鼻歌が耳に入ってきて、初めは聞こえないふりをしようとした。

怒ってはいけないと思って、唇の前に人差し指を持っていって、シーというポーズをしたりしていた。

授業の途中で、その生徒の鼻歌に独り言が混ざるようになってきた。

授業中なのに、隣に座った生徒に話しかけ始めた。

それでも怒ったりなんかせずに、柳がしなるようにやさしく注意を続けながら授業を続けるべきだったのだと思う。

でも僕は言ってしまった。

さっきから何してるんだよ 授業妨害だぞ

と言ったものの、まだ僕の心にはブレーキが掛かっていたはずだから、そんなに強い口調ではなかったと思っていた。

でもその子は泣き出してしまい、授業が終わるまで泣き続けていた。

翌日、お母さんからLINEが入った。

僕のことが怖いと言っている。辞めさせてください。という内容だった。

僕はその日に起こったことをお母さんにLINEで話したのだけれど、本人がもう行きたくないと言っていると理由で、やはり退塾の意思は変わらなかった。

 

こんな事もあった。

週末に続けている数学の補習のときに、間違い直しをしてもらいたい僕が、間違い直しは終わったの?と聞いても、終わったと言い続けている生徒がいた。

ノートを見せてと言っても、家のノートにやってきたから持ってきていないと言っている。

そんなやりとりが何度か続いた後、僕は黒板に計算問題を2問書いた。

ちょっと途中で悪いけど、この問題を解いてみよう。と言った。

 

補習に来ていた二人の生徒が、問題を解き出した。

一人は考えながら、ゆっくりとしたペースだったけれど確実に式を書いて言っている。ただ先ほど終わった。ノートを家に置いてきたと言っていた生徒は、式を書けずに困った顔をしていた。

やっていなかったね?と言うと、その生徒は黙って頷いた。

 

いま週末も、このゴールデンウィークも毎日のように補習を続けている。

僕が補習をしたいわけなのではなくて、計算ができない生徒が塾の中にたくさんいるんだ。

コロナ禍前の計算ができる生徒とできない生徒の割合がもう完全に逆転して、いまでは計算問題ができる生徒が圧倒的に少なくなってきた。

分数の通分や小数の掛け算や割り算ができない中学生生徒はたくさんいるし、方程式の計算が危うい生徒までいる。それができたしても、途中式を丁寧に書く習慣ができていないために、正解率がひどく危ういものになっている。

そしてさらに厄介なのは、補習をして正解率が上がったとしても、1週間や2週間後にもう一度解いてもらってみると、また解けなくなっていることに驚くことが頻繁にある。

だから授業以外の時間に、僕は時間を見つけては計算問題の補習を続けている。

 

ただこの補習を続けながら、僕は思っている。

僕が続けている補習を、どれくらいの生徒や保護者の方が好意的に受け取っているのだろう。

 

部活があって、生徒たちが友人と過ごす時間がある。

その上、土曜日曜に僕が補習までしてしまったら、家族で過ごす時間の邪魔をしているだけなのではないか?

なんだか僕がいま授業をしながら感じている計算が正確にできないことによる危機感に似た不安を生徒自身や保護者の皆さんは感じていないのではないかとの思いがしてきて、ちょっと不安になっている自分もいる。

 

コロナという大きな出来事があって、川口市ではほとんど同時期に授業中に生徒たちが相談しながら教え合う形のアクティブラーニングが始まった。

その影響がとこまであったのかは分からない部分もあるのだけれど、その前と後で中学生たちの勉強意欲というものが大きく後退していっているような気がしている。

でも実はそればかりじゃなくて、同時に保護者の皆さんの勉強させ意欲のようなものも同時にかなり後退してきている。

近くの中学で進学の相談の中に通信制高校の説明が入ったのも、このことと無関係ではないと思う。

個人の選択の自由の部分はもちろんあるのだろうけれど、生徒たちの学力の低下がこのことにかなり影響していると考えるべきだろう。

 

近くの中学に通う生徒たちの学力の低下は、当然平均学力の低下を招いている。そして子どもたちもその保護者たちも平均レベルと比べて自分の、我が子の学力を見てしまいがちになるから、平均レベルが下がれば生徒たちの学力は低下しがちになってしまうということなのだろう。

でも問題はそればかりではないと思う。もっと大きな問題がこの地域の中学生たちにはある。

2025年4月30日水曜日

安行中 my Love 2025.5のいま①「驚き」

ここ数年、たぶんコロナ禍以降、あるいはアクティブラーニングの導入後と言った方がいいのかもしれないが、僕の想像を超える勢いで、塾の近くの中学校は大きく変化してきている。

 

具体的には、大きな学力の低下と生徒たちの学習意欲の低下である。

学力については、中3からの入塾生徒でも蕨や浦和西に合格させることができたのが、いまでは川口高校が危うくなってきている。

一番の原因は中学授業の低下だと思うのだけれど、それだけでなく生徒たちの学習意欲の低下もまた大きな問題となっていると思う。

 

ただ安行の場で塾を続けている僕には、近くの中学の、そしてそこに通う子どもたちの変化が自分の想像を超える速さで変化してきていると思っている。

学力のこともそう、生徒である子どもたちの変化もそう、それから先生たちの姿まで変わってきたのではと、その中学の卒業生である僕にはやや不思議な感覚を持って眺めている。

その思いが、安行中 my Love という大それた題の身勝手な文章を書く原動力になっているのかもしれない。

 

 

中3生の保護者会の場で、通信制高校の説明が取り入れられたという。

ここ数年、通信制高校への進学者が増えてきていることが原因らしい。

もはやその中学では、通信制の高校への進学者が無視できない数まで膨らんできているということだろう。

全日制に進むか、定時制に進むか、それとも通信制に進むのかは、個人の自由であるのだから、他人が口を挟むべきことではないのだけれど、そこには学力という物差しが大きく関わってきているような気がして、どこか納得できない。そしてそこまできてしまっているのか?との驚きがあった。

 

いまこの地域の中学生たちの学力は、ものすごく低下してきている。

一例を言えば、小学生範囲の計算問題を理解できていない中学生たちが急に増加してきてしまっている。

5年前までの理解できていない子どもたちの割合が、いまは出来る子の割合になった。そんな印象すらある。

とくに×+÷−が混じった四則の計算にいたっては、ほぼ正解となる生徒の割合は1割程度となった気がする。

以前のように塾に来てくれている生徒たちに、方程式の文章題や関数といった入試必須の内容を週末の補習の場で教えることがなくなってきていて、いまでは週末の補習の場では、小学6年生の分数が入った計算や正負の数の難しい計算ばかりを僕はホワイトボードに向かって解いている。

放っておけないという気持ちが、還暦過ぎの男の身体と頭を休めるための休日の時間を自分の意思として返上している。

 

その状況があるから、確かに指定校で大学を選ぶ高校がこの地域では進学校と呼ばれて久しいし、そうした高校の数学がやけに暗記が多い内容になっているという事も聞いている。

でもそのレベルの高校への合格が高嶺の花になった感が強くなった昨今、そのレベルの高校に合格することの難しさをなんとか克服したいと思っていた僕の思いのはるか先まで、この中学の状況は行っている。

2025年4月8日火曜日

2025.3 いま公立入試の場で何が起きているのか? 追記

いま塾の中でこんなことが起きている。

計算ができない生徒が出てきているんだ。

 

例えば分数の計算ができないとか、小数の方がちょっと不安というのではない状態の、分数も小数も一応はできるのだけれど、掛け算と足し算引き算が同時に入っているような問題で、なぜだか足し算引き算の方を先にやってしまうとか、+(足し算)と書いてあるのに、なぜだか掛け算をしてしまうとか、これって計算間違いと言われれば、確かに計算間違いには違いないのだけれど、イメージとしては間違える癖が脳にしっかりと張り付いてしまっていて、なかなか剥がすことができない。

説明すれば理解してくれて、間違いがグッと減るのだけれど、もう翌日には前の癖が戻っていて、また間違いをしてしまう

ということは、いくら関数や図形ででてくる計算をして答えを出す種類の問題を理解してもらっても、結局方程式の計算ができないから正解にならない。ということはどんなに頑張っても、数学で決して4がつかない。数学の偏差値が50を超えないということが起こる。

 

深刻なのはこうした生徒たちの割合で、安行地区の2中学の場合、塾に来ている生徒たちに占める割合を考えると、一クラスに78人くらいはいるような気がする。だから彼らの中には、自分が計算が苦手とという意識を持ち合わせない子までいる。

思うに成績を上げるにはこの部分が苦手だからとか、分からないという感情が必要だと思うのだけれど、彼らにはその部分が不足しているように思えてならない。

きっと彼らの心の中には、この地域の中学生たちがよく口にする、もっとできない子がたくさんいる。という思いがあって、ここでもそんなに真剣になるようなことではない。そんな思いが、正しい知識を手にすることを拒んでいる部分があるのかもしれない。

 

いま塾は、強い対費用効果を突き付けられている。

とくにこの地域では、どうせ塾に通っても成績が上がらない。という気持ちが保護者の中に広がってきているように思う。

多くの中学生たちが正しい計算ができなくなっている状況は、数学の成績が上がるのにかかなり時間がかかることを意味する。まして剥がそうにも剥がれない、しつこく脳にこびり付いて離れないその癖は、土曜日曜に無料で補習を続けたとしても、そこに毎回出てきてくれることすら不確定な状況がある中で、どうやって数学の成績を上げればいいのだ?と言いたくもなる。

きっと暗記まじりで行う定期試験対策という塾にとっての逃げ道はあるのだろうけれど、そのやり方が生む大きなデメリットを考えてしまう僕には補習をやり続けることしかもう道は残っていないことに気づいて、補習をやり続けることになるのだろう。

 

もうこの地域の小学校の授業は、無理に学力を身につけない、身につけようとしない形で進んできている。

でもその問題を小学校の先生方は一切口にしていないから、児童も保護者も何の不安もない形で中学校に進学することになる。

その結果として、こうした事態が起こってしまっている。